崇徳天皇について記そうと思う。
オカルト好きな諸氏なら最早常識であり今更とも思われるが、崇徳天皇や崇徳院と検索して私のブログに辿り着く方々が少なくないのと、ウィキペディアのように辞書的で、ある意味凡庸な記述では満足できない私のような怪談好きが多少なりともいるのではないかという期待も込めて、簡単な崇徳天皇の物語を記そうと思ったのがきっかけである。
まず、崇徳天皇は元永2年、1119年に生まれて45歳で非業の死を遂げた歴史上の天皇である。
ちなみに本名は顕仁 (あきひと) であり、平成の時代を平和の祈りと共に全うされた上皇陛下の明仁 (あきひと) と同じ読みである。
百人一首では誰もが諳んじられるであろう「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」という歌を詠んだ歌人でもある。
崇徳天皇は生い立ちが複雑で親兄弟と折り合いが悪く、ついには権力闘争の末、弟によって讃岐(香川県)に流されてしまった。
わずか3才で天皇に即位させされ曽祖父の白河法皇が院政を行い、崇徳天皇は実権のない天皇であった。
弟との確執は深く、父親である鳥羽法皇が崩御される前、死の床に伏した父を見舞うためにやってきた崇徳上皇を弟である後白河天皇が追い返している。
※崇徳天皇は曽祖父の白河法皇が崩御した途端、父である鳥羽法皇の命により弟の近衛天皇(すぐ死亡)そして後白河天皇に譲位させられ上皇となっている。当時の権力がコロコロ変わる様がよくわかる。
権謀術数が入り乱れる当時の朝廷にあって崇徳院 (上皇になったため呼び名が変わる) は生い立ちの妙もあって運命的に弱かった。
なんやかんやあって弟の後白河天皇との武力対決に敗れた崇徳院は讃岐に流罪となった。
弟に敗れた理由は崇徳院側の武士よりも弟側の武士の方が戦に長けていたからだ。
崇徳院側の兵力は実戦経験のない藤原某、対する弟側の兵力は源頼朝と平清盛であった。
この二人の侍が中心となって武士の世が始まる。
讃岐に流され最早返り咲くことは不可能と悟った崇徳院は朝廷に恭順の姿勢を示す。
配流先で穏やかに過ごし、仏教に傾倒する。
苦労して書き上げた五部の大乗経を朝廷に送った。
それは装飾経といって経文の一字一字が仏であるとして華麗に修飾するもので、崇徳院はさらに自らの血も交えて書き上げるという凄まじい写経であった。
我が身がこの地に捨て置かれるならばせめてこの写経だけでも京に置かせてほしい、という願いを込めて書かれたものだった。
崇徳院の魂が込められたその写経は結局、ズタズタに切り裂かれて崇徳院の元に送り返されてしまう。
弟の後白河院はその写経に崇徳院の呪詛が込められているのではないかと疑ったのだが、しかしズタズタにするとはやりすぎであろう。
それだけ後白河院の怨念も並々ならぬものであったのだということだが。
ともあれそれが決定打となる。
激怒した崇徳院は舌を噛みちぎり、流れ出た血で天下滅亡の呪いの言葉を写経の奥に書き殴った。
その言葉こそ以下に記すものだ。
「吾(われ)深罪(ふかつみ)に行われ、秋鬱(しゅううつ)浅からず、速やかに此功力(このくりき)をもって、彼の科(とが)を救わんと思ふ、莫大(ばくだい)の行業(ぎょうごう)を、併(しかしながら)三悪道(さんあくどう)に投げ込み、その力をもって、日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん」
罪を償う為に鳥羽法皇の菩提を弔う写経をしてきたが、それを京に置くことすら許さぬとは私は朝廷にとって後世までの敵ということだな。であればこの大乗経を地獄に投げ込み、その力で国家に仇なす天狗となり、天皇をその地位から引き摺り下ろし、逆に民を天皇にしてやるという言葉だった。
そしてそれをさらなる呪いの言葉とともに海に投げ入れた。
凄まじいの一言である。
ちなみに大魔縁とは「生きながら天狗となった存在」であり、大魔縁が死ぬと大魔王となる。
生きながら天狗となり、死後は魔王となって朝廷と皇室を呪うと誓ったのだ。
崇徳院には重仁親王という子がいたが、鳥羽法皇などの思惑によって崇徳院の血筋から天皇が選ばれることはなくなっていた。
それ故に崇徳院は皇室の断絶もいとわず国を呪ったのだ。
それ以降、崇徳院は髪を切ることもせず爪も伸びて獣のようになり、身なりもボロボロでまさしく天狗のようであったという。
崇徳院の変貌と呪詛は朝廷に伝わる。
後白河院が臣下の人間に崇徳院の様子を見に行かせていたからである。
そして平治の乱が起き、かつて崇徳院と争った後白河院側の要人が次々に命を落とす。
この時まだ崇徳院は崩御していなかった。
しかし朝廷を含め民衆はこれが崇徳院の生霊によるものだと噂しあった。
崇徳院が崩御するとさらに災いは増していく。
後白河院本人が崩御するまで天皇や上皇を含め皇室に立て続けに死者が出た。
疫病や大火、大地震や妖星などの凶事が多発する。
そして平治の乱で勝者となった平清盛が政治の実権を握る。
平氏が滅亡して源氏が取って代わる。
いい国作ろう鎌倉幕府。
武士の世が始まった。
崇徳院の呪いは成就し、天皇が国を治める日本国は終わりを告げたのだ。
崇徳院が崩御して四年。
生前に親交のあった西行法師という坊主が崇徳院の供養をするために讃岐を訪れた。
崇徳院の墓の前で経文を唱え鎮魂の歌を詠んでいると西行に呼びかける声があった。
長く読経を続けすっかり日も暮れており、西行はまどろみつつあった。
はっとして前を向くとそこに崇徳院の霊がいることがわかった。
崇徳院の霊と対峙した西行はしばし挨拶を交わし問答を始める。
熱心に成仏を進める西行に対し、崇徳院は呪いの正当性を解く。
説得は失敗に終わり、崇徳院の呪いはその後700年に渡って続く。
呪いが解かれるのは幕末。
徳川最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い朝廷に国の実権を返上したことにより、天皇が統べる国に戻ることになる。
新しい明治の世に天皇として即位することになった明治天皇は、元号を慶応から明治に改元する前々日に讃岐を訪れ、崇徳院の御霊を讃岐から京都に移す式典を執り行う。
崇徳院に京都へお戻りいただくことで、皇室と崇徳院の和解を図ろうとしたのである。
この日はものすごい雨だったという。
そして100年後の昭和39年、崇徳院を奉る800年祭が昭和天皇によって執り行われた。
この日の未明に崇徳院ゆかりの地にある林田小学校が全焼している。
そしてその火事の直後にもすごい雨が降ったという。
果たして崇徳院の祟りなのか恵みなのか、判断が難しい。
その昭和39年に日本で起こった慶事を記すとこうなる。
戦後わずか19年にして、戦勝国である欧米にすら先駆けて世界初の高速鉄道である東海道新幹線が開業。
アジア初となる東京オリンピックが開催。
藤子不二雄による「オバケのQ太郎」が連載開始。
翌年から日本の歴史上空前絶後となるいざなぎ景気が始まり高度経済成長へとつながってゆく。
これらは果たして偶然だろうか。
昭和39年は西暦1964年である。
900年祭が行われる2064年に私は生きてはいないだろうが、生きてその年を迎える若者達に、崇徳院の怒りが降り注がないことを願い、筆を置く。