「ちょっと下ネタなんすけど大丈夫ですか?」
そう前置きをして語り出した話は実にくだらないものだった。
ジュン君が数日前から腹痛に苦しんでいた時のこと。
お腹の中になかなか出ようとしないラスボスのような便があることには気づいていたが、運動しても繊維を意識して摂取しても出てきてくれない。
外出先でも思い出したようにキリキリと痛みを発し、その度にトイレを探して駆け込む日々を送っていたという。
そんな日々を過ごしつつ、友人と居酒屋で酒を飲んでいた。
個人経営の小さな居酒屋で店内は20人も入ればギュウギュウになるような広さだった。
トイレは男女の区別なく一箇所のみで、慢性的な腹痛に悩まされて彼はトイレの場所と利用状況を常に視界に入れて腹痛に備えていたという。
そしてキリキリという腹痛を感じ始めた彼はトイレに立った。
ドアを開けてトイレに入り、後ろ手でドアを閉める彼の視界にチラッと黒い影が映った。
今の今まで自分がいた場所に、人型の黒い影が立っている。
影の形からは男女や老若の識別はできないが、彼には直感でソレが若い女性の霊であることが分かったという。
霊を見るのが日常茶飯事である彼は「ああまたか」と思ってその影に動揺することなく無視してドアを閉めた。
便座に座って腹痛と闘う。
いよいよ痛みは酷くなり、腹の中に居座っているヤツが出てこようとしている予感がする。
コンコン。
ドアをノックする音が聞こえて顔を上げる。
自分が入ってからまだ1分も経っていない。
迷惑をかけてはいないはずだ。
そう思いコンコンとノックを返す。
直後、バンバン!と大きな音でドアが叩かれ、ジュン君はビクッと肩を震わせた。
「嘘でしょ…」
営業中の居酒屋で、駆け込んできた客がトイレに入りたくて「開けてくれ!」とトイレを叩く状況なんて見たこともない。
ドアの下部がブラインドの通風口になっており、そこから覗いても誰の足も見えない。
ああこれアイツだ
ドアを叩いたのが人間じゃないと悟って、彼はドアを閉める直前に見た黒い影を思い描いた。
彼が気づいたことにアイツも気づいていて、彼に存在をアピールするためにやっているのだろう。
そう考えて無視することにした。
バンバン!
またドアが激しく叩かれる。
大きな音とドアを震わせる振動にも関わらず、店内にいる客や店員が様子を見にくることもない。
この現象は自分にしか認識できないと分かって安心して腹痛との戦いに専念することにした。
いよいよ腹の中のヤツが出てこようとしている。
脂汗が顔を伝い、腹痛とリズムを合わせてヤツの解放に全力を尽くしていると、ふいにカチャリと音がしてまた顔を上げた。
ドアの鍵が開いている。
ドアノブではなくスライドするタイプの鍵が何故か左にスライドして解錠の状態になっている。
アイツだ!と気づいて鍵を施錠する。
ジュン君が鍵を押さえていると、明らかに鍵が左にスライドするような力が加わる。
「ダメダメダメダメ」
言いながら両手を添えて鍵を押さえる。
なんなんだアイツは、トイレ入りてえのか。
そう思いながらも鍵は開こうとするし、腹痛はいよいよ頻度を増して腹の中のヤツも出てこようとしている。
脂汗が垂れる。
呼吸も速くなってくる。
「今はやめて。今はやめて」
小声でドアの向こうの相手に懇願する。
今はお前の相手をしている場合ではない。
腹の中に居座って数日の間自分を苦しめてきたラスボス的なアレが今まさに出てこようとしているのだ。
やめてやめてと囁きながらドアの鍵を押さえ続けていると、ふと視線を感じたという。
視線を探して顔を下げると、ドア下部の通風口の向こうに人の顔があって彼を見上げていた。
若い女性が無表情で彼を見上げてくる。
通風口は床から数センチの高さにあるわけで、その位置に頭があるなどどう考えても人間ではない。
床にめり込んでいるのか、あるいは生首だけがそこにあるのか。
ゾッとするようなシチュエーションだが、霊など見慣れたジュン君は特に怖いと思わなかったという。
なんなんだお前、さっきは影だったくせに、なにちゃんとした顔で見てんだよ!
どうしようもない状況に追い詰められていた彼はそう悪態をついた。
女性の霊は何も言わず彼を見上げている。
鍵は相変わらず隙あらば解錠しようとスライドする力が加わる。
腹は痛い。
鍵は勝手に解錠しようとする。
女の霊は見上げるだけで何も言おうとしない。
そんな状況に切羽詰まった彼は女の霊にしっかり目を合わせて「やめて!」と言った。
やめろと強い言葉を使えばよかったと今なら思うが、当時の彼は精神的にも肉体的にも追い込まれていて女性のような言葉使いになってしまったという。
トイレに入ってからここまで数分の出来事である。
地獄のような状況で女の霊と睨み合うこと数十秒、いよいよ腹の中のラスボスがこの世にまろび出てきた。
途端に彼の体から痛みという痛みが消え、腹は開放感と軽やかさで踊り出しそうなほど歓喜に満ちている。
無敵状態になったジュン君は素早く事後処理をして立ち上がりトイレを流してドアを開けた。
「かかって来いや!」と意気込んで外に出てみると、女性の霊も黒い影もどこにも見当たらなかったという。
「いねえのかよ…何だったんだアイツは…」
振り返ってトイレの中を探しても黒い影は見当たらない。
どうやらトイレに入りたかったわけではないようだった。
「俺が無敵になったら逃げやがったんすよアイツ!」
目の前で楽しそうに語るジュン君にその後のオチはあるのかと尋ねる。
「俺にはなんもなかったんすけどね」と言ってジュン君は続ける。
肩透かしを食った彼は憤慨しながら友人の元に戻った。
「いやあオバケいたよ」と伝えると友人であるアッちゃんは「やめてよ」と答えた。
「俺もこれからトイレ行くんだから、怖いじゃん」
ジュン君が普段から霊を見ていることを知っているアッちゃんは文句を言いつつ席を立った。
アッちゃんの背中を目で追いかけていると、トイレに入る彼の背後に黒い影が立っているのが見えたという。
まあアッちゃんは霊感ないから平気だよねと思いつつ黒い影を観察する。
特に何もする様子はなく、ぼんやりとその場に佇んでいる。
やがてトイレを済ませたアッちゃんがこちらに戻ってくる。
「いやお前さあ、ビビらせるのはいいけど怒られなかった?」
呆れた口調で訊いてくるアッちゃんに「なんのこと?」と返す。
「めちゃくちゃドア叩いたじゃん。流石にお店の人に怒られなかった?」
「あー……ちょっと店変えようか」
文句を言う友人を宥めつつ会計を済ませ店を出る。
「アッちゃん俺さ」
次の店を探して歩き出しながら友人に言う。
「叩いてねえんだわ」
友人はそんなジュン君の言葉を信じない。
「いやめちゃくちゃ叩いたじゃん。お店の人に怒られる方が怖かったよ」
「アッちゃん…俺叩いてねえんだわ」
それが霊体験だったと説明するジュン君と、それを信じたくなくてジュン君のイタズラということにしたがるアッちゃん。
次の店に着く頃にはこの議論は終わっていて、その後は楽しく酒と料理を堪能したという。
その後ジュン君はその店に訪れることはなかったが、友人は数回その店を使ったらしいが、トイレのドアを叩かれる体験はしていないそうだ。
「なんだったんすかね」
ジュン君の問いに私は少し考えてから答えた。
強い霊感のある人間の近くにいると、一時的に霊が見えるようになることがあるという。
友人の場合はジュン君の近くにいたことで一時的に霊に対するアンテナが立ったのか、あるいはジュン君と関わったことで霊が興奮して強い霊現象を引き起こしたのか、そのどちらかではないか。
それを調べるには同じ店に行ってみる必要があるが、現在その店が入っているビルは取り壊されて別の建物になっているということだ。
~終わり~
この怪談の動画はこちら
『あの女性はなんだったの?』という考察を真剣に語り合うメンバーの考察タイムが面白いのでぜひご覧ください。