前田さんと不思議な体験をしたその日、俺は老師に天道宗について尋ねた。
前田さんも俺も気功で転がされ続けたおかげでクタクタだったが、それでも老師に会いに来た目的は果たさねばならない。
体を引きずるように機材の片付けを始めた前田さんを横目に、老師の元へ向かう。
「以前お会いした際に、コウ先生がおっしゃっていた天道という人物についてお聞きしたいんですが」
老師と話しているハオさんに声を掛けると、ハオさんはバネ仕掛けのようにクルリと振り返ってこちらに向き直った。
射ぬくような視線。
そして一瞬の後に口を笑みの形に歪める。
口元こそ笑みを浮かべているが、どことなく目が笑っていない気がする。
小心者としてはそれだけで若干気圧されてしまう。
チラと老師を見ると老師も俺を見ている。
その表情は相変わらずにこやかだ。
「実はですね、先日ちょっとした騒動が起きたんですが、オバケ関係でね。それでその騒動の関係者が天道宗と名乗っている団体のようなんですよ」
説明が早口になってしまった。
これでは何やら言い訳をしているようだ。
相変わらず情けないことこの上ない。
「わかりました。ちょっと先生に聞いてみますね」
そう言ってハオさんは老師と小声で話し出した。
老師の言葉にしきりに頷いている。
「カサネさん、おっしゃる通り先生はテンドウさんのことを調べています。カサネさんはどんなことを知っていますか?」
「怪しげな呪術を使う集団ということは知っています。つい先日もヨミという女が集団自殺の騒動を起こしましたが、それもその天道宗がやったんじゃないかと私達は考えています」
「私達?カサネさんとイガノさんですか?」
「いえ、伊賀野さんの他にも騒動に関わった人は結構いまして。私を含めて10人ほどですが」
ハオさんはまた老師に俺の言葉を通訳し、何やら話し込んでいる。
腕時計をチラチラ見ていることから、次の予定との調整を考えているようだった。
「カサネさん、大変申し訳ないのですが、このスタジオのレンタル時間がもう少ししか残っていないです。もしよければこの後どこかに場所を移すか、後日ゆっくり時間を取って情報を交換するのはどうですか?」
ああそういうことか。
もちろんこの後すぐでも構わないが、俺はともかく前田さんを付き合わせるのは忍びない。
それに俺1人では荷が重いのもある。
「それで構いません。では日を改めてお伺いさせていただきたいなと。その騒動に関わった人間で、私よりも一連の騒動に詳しい人を連れて行きますから」
そう伝えると老師はニコニコと頷いた。
良かった。
これで老師のアポを取るという俺のミッションはクリアしたぞ。
正直俺も疲れているので早く帰りたい。
詳しい日程は後ほど調整することをハオさんと確認して、俺は疲労でグッタリしながら機材を片付けている前田さんを手伝うべくそちらへ向かった。
「…………」
一瞬の緊張感を思い出す。
テンドウという名前を耳にしたハオさんの反応と表情。
探るような視線、というのだろうか。
俺のことを天道宗の人間だと思ったのかもしれない。
ほんの数秒だが、ああいう視線を向けられるのに慣れていない身としてはたじろいでしまう。
「…………」
だがハオさんは確実に何かを知っている。
老師だけではなくハオさんを含めた団体そのものが天道宗を追っていると見て間違いなさそうだ。
前田さんと機材の片付けを終えて、老師に挨拶をするべく視線を向けると、スーツ姿に着替えたハオさんがこっちに気づいた。
「お疲れ様でした!撮影よりも疲れちゃったね!」
ハオさんは先程の緊張感が嘘のように楽しそうに言った。
「いやあ大変…勉強になりました。また是非参加させてください」
俺も当たり障りのない返事を返す。
老師が前田さんを見てフムと息をついた。
ハオさんと何やら相談して、前田さんにいくつか質問をする。
どうやら前田さんの故郷の神様について、何か思うところがあるようだ。
前田さんが適当に誤魔化していたので、俺も知らぬふりをしておくことにした。
そのままヨガスタジオを辞して最寄り駅まで前田さんと一緒に向かい、駅のホームで別々の電車に乗って別れた。
老師とアポが取れたことを伊賀野さんと篠宮さんにLINEする。
気功のことを伝えたら篠宮さんあたりは興味を持つかもしれないが、まだ老師達とは協力しあう関係でもないし、そうなるかも不明だ。
必要最低限の接触にしておいた方が良いかもしれない。
無事に営業マンとしての役割を果たしたことを報告して、ついでに今日のハオさんの反応についても触れておくことにした。
伊賀野さんも篠宮さんも「注意しつつ出来るだけ情報を引き出して、老師達が友好的であるなら協力し合うのが良い」という認識で問題ないとのことだった。
そして面会当日、俺達は横浜中華街の路地裏にある古びた中華料理屋の前にいた。
15時ということで昼休憩なのか店は閉まっている。
約束の時間の少し前に到着した俺達は、篠宮さんが前田さんから聞き出した情報を教えられた。
この外観はカモフラージュで、中に入ると豪華な個室があると。
「なんでわざわざそんなことしてるんですかね」
思わずつぶやいたものの、答えを返せる人間はこの場に存在しない。
「老師は本国にいたら逮捕されるかもしれないから日本に来たって話だし、結構危ない橋を渡ってる人なのかもね」
伊賀野さんの言葉に篠宮さんが問い返す。
「でもYouTubeとかで生徒さんを募集するくらいですから、日本では安心?なんですかね」
「まあただの隠れ家的レストランってだけかもしれないですねえ……お、来ましたよ」
俺達の近くにタクシーが止まった。
中から降りてきたのは老師とハオさんだ。
左側の後部座席のドアが自動で開き、老師がよっこらしょと出てくる間に、反対側のドアを手動で開けてハオさんが素早く出てくる。
相変わらず早回しのような身のこなしで左側に回り込んだハオさんが、タクシーから出てくる老師を護衛するようにドア横に立ち振る舞う。
おそらくは本当に通訳兼護衛なのだろう。
老師は基本的にニコニコしているだけだし、手足のように動くハオさんがいなければ日本での活動もままならない気がする。
以前に見た老師の術。
悲しい一家の霊を成仏あるいは封印した手腕は見事というしかない。
それに先日、身をもって知った気功の技。
老師が大変な力を持った霊能者であることは疑いないが、ハオさんは通訳と護衛と秘書という実務面で欠かせない存在だろうと思った。
お茶目でちょっと抜けてて元気いっぱいというのがハオさんの全てではないということだ。
「○○□」
タクシーから降りた老師が俺達にニコニコした顔で言った。
挨拶をしてくれたのだろう。
「カサネさんお待たせしました!イガノさん!お久しぶりです!ハッハハハハ!!」
老師の言葉を訳したのか、ハオさん自身の挨拶なのか、両手を広げて大きな声で挨拶するハオさん。
「どうもどうも、先日は貴重な体験をさせていただいて。本日もよろしくお願いします」
老師とハオさんに軽く頭を下げて挨拶する。
「お久しぶりですコウ先生、ハオさん」
伊賀野さんもにこやかに頭を下げている。
笑顔で頷いている老師とハオさんに軽く篠宮さんを紹介して、俺達は店内へと案内された。
「…………」
やたらと赤い内装の豪華な個室に通され唖然とする。
あらかじめ聞かされていたとはいえ、薄暗い古びた店内からのギャップは凄まじい。
夢の中にいるかのような唐突な場面転換で現実感がない。
ただのオシャレなら「こりゃ凄い」で終わるのだが、何かを狙っての演出なのだとしたら、これほど効果的な作りはないだろう。
完全に出鼻を挫かれた俺達はハオさんに促されるまま円卓につく。
前田さんはここから強引に宴会へ持ち込まれたわけだが、あいにくまだ夕方前だし俺も伊賀野さんも僧侶だからと辞退することはできるだろう。
そう思っていたら水とコーラを出された。
老師を見るとニコニコとうまそうにコーラを飲んでいる。
その可愛らしさに緊張が緩む。
「…………」
非常に和やかでありがたいのだが、感情の起伏を見事にコントロールされていることに気がついて、また少し居心地が悪くなる。
完全に相手のペースになってしまった。
会話の主導権もあちらにあるわけだが。
「カサネさん!今日のお話はテンドウさんについてです!まずはカサネさんが言っていた騒動というのを教えてくれますか?」
いきなり本題を振ってきた。
これはこれで助かる。
腹の探り合いなんて俺にはとても無理だ。
俺から見て右側に座る伊賀野さんと篠宮さんにチラと視線を送り、「ええ、構いませんよ」と言った。
2人とも特に警戒している様子はなかった。
ここは日本人らしく腹芸のできない外交といきますか。
「まず、私達がテンドウ、天道宗について知ったのはつい最近になってのことです」
俺達は深夜のラジオ番組で起きた心霊騒動の顛末と、その解決、そして仏壇に残されていた手紙から天道宗という集団に行きついた経緯を詳しく話した。
俺の言葉を伊賀野さんや篠宮さんが補う形だったが、話の主体はどんどん篠宮さんに移っていった。
俺や伊賀野さんよりも彼女の方が一連の出来事について詳しいし、ライターさんらしく話もうまい。
老師やハオさんからの質問にも的確に答えつつ、つい最近のヨミ騒動までを考察を含めて話し切った。
麦かぼちゃさんの家の仏壇にあった手紙のコピーや、丸山理恵の遺体を除霊した映像も全て見せた。
全てを話し終えるのに30分近くかかっただろう。
意外に思ったのだが、老師達は深夜ラジオでの事件についても知っていた。
ヨミ騒動に関しては連日テレビで報道されていたので当然だが、まさかマニアックなオカルトラジオで起きた事件のことまで調べているとは思わなかった。
誰かネットに強い担当者がいるのだろうか。
まさかそれもハオさんが調べたのだろうか。
「そのラジオ番組の騒動は私達も調べていました」
ハオさんが落ち着いた口調で話し始めた。
老師の言葉を通訳するのでなく、ハオさん自身の言葉で話すようだ。
自分が話してから老師に小声で説明し、老師がウンウンと頷く。
事後承認のような感じだ。
「霊を集める箱については私達も興味を持っています。蠱毒という術を知っていますね?おそらくはその応用で非常にシンプル。だからタチが悪い」
ハオさんの口調はいつものやたらデカい声ではなく非常に落ち着いている。
この印象の転換も実に見事だ。
「単純に霊を集めて逃さず、箱の中に留めておくなら話は簡単です。そのように作れば良い。問題はそうやって集めた霊をどう使うのか。もっと言えばその箱の中にいる霊達の取り出し方が一番の問題です」
ということは老師も作れるのだろうか。
あのような外法とはいえ、確かに蠱毒はポピュラーな呪術だし、中国なら様々な応用があるだろう。
ハオさんが続ける。
「術を解除して蓋を開けておけば霊達はいなくなるでしょう?それでは霊達を集めた意味がない。カサネさん、テンドウシュウは霊達をどのように取り出したのか知っていますか?」
ヨミのうなじに刻まれていた呪術印が頭に浮かぶ。
「詳しくはわかりません。先ほどお見せした映像にもヨミに施された呪術の印が映っていましたが、おそらくはその呪術によって箱の中の霊を取り憑かせたのだと思います」
俺がそう答えていると、篠宮さんが鞄から紙の資料を取り出し、老師とハオさんに手渡した。
俺や伊賀野さんにも同じ紙を手渡してくる。
それはヨミに刻まれた術式の映像をプリントアウトしたものだった。
天道宗の手紙のコピーといい、篠宮さんの優秀さもハオさんに負けていない。
そう思うとなんだか気持ちが軽くなった。
ハオさんと老師は興味深そうに呪術印を観察し、小声で意見交換をしている。
老師は紙を時計回りに回して上下左右をひっくり返しながら見ている。
「この呪術の形式をご存知ですか?」
と篠宮さんが尋ねると、老師は首を振った。
「これそのものではありませんが、似たような術なら中国で見たことがあります」
篠宮さんが俺から話を引き継いで説明を続ける。
「この資料を知り合いの霊能者に見てもらってわかったんですが、どうやら複数の文字や象徴を組み合わせているようなんです。この部分なんですが」
と、プリントアウトした呪術印の資料を顔の高さまで持ち上げて老師達や俺達に見せ、呪術印の一点を指差して示す。
「ここに書かれているのはどうやら『如』という文字ではないか、そしてこの部分には…」
紙の上下をひっくり返してから指を動かして別のポイントを示す。
「丸山理恵と書かれています。非常に緻密で、しかも文字をグニャグニャに変形してあるので絵や模様のように見えますが、おそらくは文字を崩しに崩して術式に組み込んでいると考えられます。そしてその中心に大きく『供身』と書かれています」
供身とハッキリ書かれた部分に指でクルッと円を描く。
「これがおそらく天道宗の呪法で、箱の中の霊に肉体を与えるような効果があると思われます。他にも箱の中の霊を取り出す方法があるかは不明ですが、おそらくあるでしょう。間違いなく霊を集めて使役する方法を確立していると思います」
実によく喋る。
同時通訳するハオさんの忙しさたるや半端ではない。
訳しながら若干焦っているのが見てわかる。
説明を聞き終えた老師が大きく頷いた。
「○△△□。□□○○□△」
「とてもよく分かりました。ありがとうと言っています」
篠宮さんの弾丸トークをノンストップで訳しきったハオさんが若干ほっとしたようににこやかに言った。
老師が呪術印の資料になにやら書き込んでいる。
ハオさんが怪訝そうに老師の手元を覗き込みギョッとしている。
ほんの数秒、老師がボールペンを走らせる音だけが聞こえる中、俺達は黙って老師の手が止まるのを待った。
老師が書き込みを終えた資料を篠宮さんと同じように掲げて見せる。
赤いペンでいくつか丸がつけられ、その横に漢字が書いてある。
非常に細かく、円卓のこちら側からは判読できないので、俺達が席を立って老師の側まで寄ると、老師は資料を円卓の上に置いて全員から見られるようにした。
『東・嶽・大・帝・冥・供・恩・法・霊』
赤い丸が描かれ、その横に赤い文字で漢字が書かれている。
赤丸の部分にはこれらの文字が変形されて隠されているということだろう。
グニャグニャの模様にしか見えない呪術印をパッと見てこれだけの文字を拾ったのか。
上下左右もデタラメで、字形も歪めて描かれたバラバラの文字を見てうんざりする。
他にも様々な文字が隠されていそうだが、とてもじゃないが全て見つける気にはなれない。
『供身』の文字を囲む模様の中に、歪めて変形した文字を縦横デタラメに配置している。
なんというか、非常にグロテスクな呪術印だ。
「文字を歪めるという表現は中国でもよく使う手法です。先生は読み解くのも得意だと言っています」
ハオさんが訳すのを聞きながらホッホッホと老師が笑う。
さすが漢字に関しては日本人よりも詳しい。
改めて老師が書き込んだ字を眺める。
そのバラバラの字の中で、最初の四文字だけが隣り合う形で記されている。
「東嶽大帝(ドンユェダーディ)、というのは中国の神様ですね」
その四文字を指差してハオさんが可笑しそうに言う。
トンイェー……なんだ?
ハオさんの読みは中国語の発音だが、篠宮さんは文字を見て何か気づいたようだ。
「とうがく……泰山府君(たいざんふくん)だ……てことはやっぱり…」
小声で何か呟いている。
「テンドウシュウは中国の神様を信仰しているんですか?」
ハオさんが冗談めかして疑問を口にする。
「どうなんでしょう……東嶽大帝、泰山府君は道教の神様で、日本でも陰陽道の神としてそのまま信仰してますから、天道宗の使う呪術が陰陽術なのであれば、死者である霊をどうこうする為に泰山府君を用いてもおかしくないとは思いますが……」
うーんと唸ってしまった篠宮さんに皆が注目する。
「すいません。専門ではないので確定的なことはなんとも。ただ所々にドーマンセーマンとか陰陽術っぽい印が散見されるので、多分陰陽術なんじゃないかなあとは思ってました。泰山府君の名前が書かれてるなら間違い無いかと」
しばしの黙考の後、篠宮さんはそう言って続ける。
「日本の呪術ってほとんどが中国の呪術のアレンジだったり、神道とのミックスですから、仏教や道教の影響が出るのは当然なんです。陰陽術を使う知り合いにこのことを確認してみます。非常に嫌な奴なんですが何かわかると思うので」
陰陽術……おそらくは嘉納さんか。
たしかに篠宮さんは嘉納さんが苦手っぽい感じだった。
まあ俺もだが。
「…………」
それにしても天道宗。
表向きは仏教を装うくせに扱う呪術は陰陽術。
死者の冒涜の仕方といい、霊とか信仰心という概念をあからさまに挑発している気がする。
俺達が当たり前に大切にしているものを、わざと踏みにじっているような不快さがある。
「ありがとうございます。日本の術に関しては知識がないので助かります」
老師の言葉をハオさんが訳す。
「それで、他にも何か教えてくれることはありますか?」
続いた問いかけに篠宮さんは首を振り、俺と伊賀野さんに目を向ける。
これ以上俺に言うべきことはないが、代わりに伊賀野さんが声を上げた。
「ヨミに取り憑かれていた被害者の女性の霊を私の所で保護しています。とても弱っていてコミュニケーションを取るのも一苦労ですが、現在の天道宗の核心部分だと思うので、なんとしても情報を引き出すつもりです」
さすが伊賀野さん、強気だ。
こちらが一方的に情報を提供するだけでは済まないぞということだろう。
今後伊賀野さんが丸山理恵さんから引き出した情報を知りたくば、この場で老師からもそれなりの情報を寄越せと暗に言っている。
俺には到底真似できない発言だ。
「わかりました。それでは今度はこちらが持っている情報をお伝えします」
ハオさんが老師の言葉を訳す。
伊賀野さんの思惑通りにいったようだ。
「まず、私達はテンドウさんの仲間ではありません。それはカサネさん達もそうですね?」
ええ、と頷く。
ボソボソと呟く老師の言葉をハオさんが静かに訳す。
「私達が日本に来た目的は先生の弟子を日本でも集めること。それとは別にテンドウさんとその仲間について調べるためです」
やはりそうか。
天道宗を調べる目的があると。
「先生の先生の先生の話なんですが」
んん?
先生の先生の先生。
老師のお師匠さんの、さらにお師匠さんということだろうか。
それとも単に『昔々の……』ということだろうか。
「今から百年ほど前に、日本で大きな地震が起きたのを知っていますね?」
百年前というと……。
「ええ、もちろん知っています。関東大震災と呼ばれています」
篠宮さんがすかさず答える。
百年前と聞いてボンと出てくる篠宮さんがすごいのか、俺が単にポンコツなだけか。
いずれにせよ話がスムーズで助かる。
「先生の先生の先生は紅卍字会(ホウワンズィフイ)という赤十字のような組織の一員として日本に来て、地震で壊滅していた東京で救援活動を行いました」
関東大震災を受けてのアメリカの即日対応は有名な話だが、中国からも来ていたのか。
数年前には日清戦争で戦っていた訳で、決して日本に良い感情は持っていなかっただろうに、ありがたい話だ。
「救援活動が終わって中国に帰る前に、先生の先生の先生達は何人かの日本の宗教家達と交流を持ちました。紅卍字会は道教の団体ですから、お坊さんや神社の人達から救援活動のお礼に、京都にある彼達の施設に招かれたんです」
宗教間交流。
そういえばウチの本山にも外国の宗教指導者が訪問に来た記録があるな。
「先生の先生の先生達は何日かそこで過ごしました。その間にお坊さんの一人から紹介されたのが、テンドウと名乗る人物でした」
ほう。
そこで天道が出てくるのか。
篠宮さんの話によると大正時代にはすでに天道宗として活動していた記録があるという。
「先生の先生の先生はテンドウさんの話に強く興味を持って、彼の自宅へと行ってみました。そこで何があったのかは先生も聞いていませんが、先生の先生の先生は二度とテンドウさんと会わないと決めた」
「……何があったんでしょうか?」
とりあえずそう返す。
ハオさんが老師に俺の質問を訳す。
老師は少し考える素振りを見せてから、ハオさんに返答した。
「具体的なことは先生にもわからないですけど、「日本の邪教は業が深い、知るべきではない」と先生の先生は言っていたそうです。おそらくですけど、テンドウさんが作った霊を集める箱を、先生の先生の先生も見たんだろうと、先生は言っています」
邪教。
漫画やゲームでなくリアルでその単語を聞くと、どうにも不気味というか、不穏な印象が強い。
「それが、先生が日本に来る前にテンドウさんについて知っていたことです」
なるほど。
かつて関東大震災の救援隊として道教の団体が日本に来た。
そこでお礼のために京都にあるお寺か神社が彼らを招待した。
滞在中に天道と出会い、天道のやってることを知って拒絶したと。
「それで…なんで天道宗を調べようと思ったんです?」
そう聞いてみると、
「研究のためですよ」
とハオさんは即答して口だけで笑みの形を作った。
あの時と同じように目が笑っていない。
タイミングからして老師の言葉を訳すでもなくハオさん自身の言葉だ。
老師に相談するまでもないということだろう。
「日本で活動を始めることですし、日本の術のことも知りたいでしょう?それだけですよ」
「…………」
嘘だ。
直感だがそう断言できる。
ハオさんの口調と表情。
何かを隠してますというのがありありとわかる。
それに「それだけです」なんて言う奴は大抵、他のことを隠しているものだ。
俺の当てにならない観察眼でもそんなことくらいわかるぞ。
「…………」
それにしてもあからさまな態度だ。
腹の中を見せるつもりはないという意思表示のようにも思える。
「現在の天道宗については何かわかってるんですか?例えば……そうですね、本部の場所とか」
あからさまな嘘を突っ込んでも答えないだろうと思い質問を変えると、ハオさんはフムとため息をついた。
「残念ながら本部はわかりません。ただしいくつかの拠点は発見しました。表向きはどれも普通のお寺や施設のフリをしていますが、複雑な霊の気配がわずかに感じられる場所です。カサネさん達も覚えがあるでしょう?」
あの、複数の人間が重なったような、滅茶苦茶な気配か。
先日の丸山理恵さんの除霊を思い出す。
「ええ、私達も二度ほど天道宗によって作られた悪霊を見ていますから」
「必要であればその場所を教えても良いですが、どうしますか?」
ハオさんがにこやかにそう言った。
「え?…ええ…では念のため」
老師の昔話以外に積極的な情報開示は無さそうだと思っていたが、そうではないようだ。
「わかりました。後でメールします。それで、何か他に聞きたいことはありますか?」
先ほどのわかりやすい嘘とはうってかわって積極的に情報を提供する姿勢を見せる。
老師の目的に関しては教えられないが、それ以外なら意外と協力的なのかもしれない。
「天道宗の目的については何か知っていますか?彼らは何のために霊を集めているのでしょうか」
俺の質問をハオさんが老師に訳す。
ハオさんは老師に確認を取ってから、先ほどのように多くを話し始めた。
「まず、彼達は仏教を装っていますが、実態はちゃんとした仏教ではないでしょう。末端の信徒さん達は真面目に仏教だと思っていますが」
老師達の認識も俺達と同じだ。
宗教組織は隠れ蓑に過ぎないと。
「そうですね。私達も仏壇を見ましたが、見た目は普通の仏壇でしたし。仏壇を拝んでいた人も普通に信仰していたようです」
「彼達の拠点に出入りしていたテンドウシュウと思われる何人かに接触して話を聞きました。とても真面目で良い人達だった。彼達は自分の団体が何を作っているのか知らない」
なんと実際に天道宗の人間から話を聞いたのか。
俺達は今まで手がかりすらなかったというのに。
いや、拠点がわかっているなら見張っていれば可能か。
ハオさん達はずいぶんと天道宗に迫っているようだ。
「日本にいる先生の友人のコネクションを使って、何人かの宗教家や霊能者にもテンドウシュウと箱のことを聞きました。テンドウシュウに関しては知っている人は少なかったけど、一人だけ、怪しい箱について相談を受けたことがある人がいました」
怪しい箱。
麦かぼちゃさんと同じようなケースがあったのだろうか。
「相談を受けたのは神社の神主さんなんですが、相談の内容が興味深いです。その神主さんはある社長さんから相談を受けました。ある日、自宅に大きな木の箱が送られてきた。差出人には自分自身の名前が書いてある。箱はどうやっても開かないし、開けたくもない。その箱からはどうにも恐ろしい気配がすると」
箱が送られてきた?
誰から?
「その神主さんが霊視したところ、とても難しい箱だとわかった。どうにかしてその箱を封印できないか考えていたら、数日経って社長さんから連絡が来た。『この箱は大事に保管することになった。だからこの話は忘れてくれ』と」
やばい。
この話は聞きたくない。
「おかしいでしょう?恐れている箱をそのまま自宅に置いておくことにした。それなのに『もういい』と言いますか?」
「解決……したんじゃないでしょうか。誰か他の霊能者とかが……」
胃の奥に重くのしかかる不穏な気配を無視して楽観的な意見を述べる俺に、ハオさんはノンノンと人差し指を振った。
「神主さんは霊視を続けていました。その箱の中の霊を誰かがやっつけたのなら分かるはずです。でもそうではなかった」
「もしかして…取り憑かれた?」
「そうかもしれませんし、違うかもしれません。ここからは私達の想像ですが、もしもその箱がテンドウシュウが作った霊を集める箱だとして、箱を送った後でその社長さんにコンタクトを取ったとしたら、どうなると思いますか?」
この流れはまずい。
どう考えてもまずい。
ハオさんはまるで怪談話を語るような、都合の悪い事実を淡々と語るような、平坦な口調で続ける。
「箱がどれほど悪いものであるかを伝えて、警察では対処してくれないし神主さんや霊能者でも難しいと思わせて、自分達の言う通りにすれば安全ですと言えば、社長さんは従ってしまうんじゃないですか?」
ハオさんの言っている内容が容易に想像できる。
空想とか陰謀論の類ではない。
天道宗の連中がやろうと思えばできてしまうことだ。
「いずれにせよ神主さんは『もういい』と言われてしまいました。その後、社長さんに連絡を取ろうとしても拒否されているそうです」
「あの箱を脅迫の道具に使っていると?」
うめくような俺の問いに、ハオさんは楽しそうに目を細める。
「テンドウシュウが必要とする人に箱を送りつけて脅して、彼達の言う通りにさせる。ありえない話だと思いますか?」
「…………」
言葉が出ない。
なんと言って良いのかわからない。
死者の霊を冒涜して、何か大層な儀式でも行うのかと思っていた。
それが単なる脅しの道具だとは。
これでは霊達があまりにも可哀想だ。
「彼達はすでに動き始めています。少なくとも先生はそう考えています。そして彼達の準備は始まったばかりかもしれませんし、もうほとんど終わっているのかもしれません」
「…………」
うまく言葉が出てこない。
ハオさんの言葉を正しく認識している自信がない。
伊賀野さんと篠宮さんに目を向ける。
彼女達も困惑した顔をしている。
「…………」
もうここまで事態は進んでいたのか。
天道宗が大昔から活動していたのは間違いない。
様々な人間に箱を送りつけて脅して、傀儡にする。
外道も外道。
いったい今までにどれほどの箱がバラ蒔かれたのか判断する材料はない。
「ヨミの騒動が一種の宣戦布告だとするならば、彼達はまもなく大きな行動に出るでしょう」
ハオさんは楽しそうだ。
何がそんなに面白いのかと怒鳴りつけてやりたいが、それをする勇気は俺にはない。
「カサネさん、△△○○、△□□○○」
老師が俺に向かって珍しくハッキリと告げた。
ハオさんの口がニイと弧を描く。
「カサネさん、戦いはまもなく始まります。あなた達はどうしますか?」
「……そう……ですね……いやまさか……そこまで事態が進んでいたとは……」
どう答えて良いのかわからない。
そもそも俺達の手に負える話じゃない。
警察……は難しいとしても、誰か話を聞いてくれそうな有力者を見つけて、協力を取り付けないことには全く対抗手段がない。
「天道宗について知っている人がいるとおっしゃってましたが、どんなことを言っていましたか?」
黙ってしまった俺に痺れを切らしたのか、伊賀野さんがハオさんに質問した。
「私達は日本に来てから色々な人に会いました。お寺や神社、それから霊能者。それでその人達が読んだことのある古い文献に、僅かですがテンドウという記述があると聞きました」
古い文献か。
ウチの寺にも大昔からの記録がある。
歴代の住職の日記みたいなもんだ。
「いくつかの文献にテンドウさんの記述がありましたが、記録された時代も見た目の特徴もバラバラ。どういうことかわかりますか?」
時代と特徴がバラバラ。
ということは。
「……天道は複数人存在していた?」
「その通りです。おそらくテンドウさんとはテンドウシュウのリーダーの役職のようなものでしょう」
天道宗のリーダー。
何代目の教祖とかそういう感じか。
過去に存在した人物というだけでなく、天道宗という組織だけでなく、天道という名を継いだ人物が今も存在しているということか。
「○□□○、△△□△○□」
老師の言葉にハオさんが少し困惑する。
「もしもテンドウさんが一人しか存在しないのだとしたら、それは人間ではない」
老師の言葉を訳したハオさんが変なことを言った。
人間ではない?
老師はボソボソと続ける。
「先程のシノミヤさんの話を聞いて、先生はテンドウさんが鬼、オバケである可能性もあると考えています」
霊とか妖怪の類だということか?
「もしもテンドウシュウが箱の中の霊を取り出して人間に取り憑かせることができるなら、テンドウさん自身が箱の中に入ってしまえばいい」
天道自身が……できるのかそんなこと?
できるとしたらどういうことになる?
「普通は死んだら成仏するでしょう?日本の宗教はわかりませんが。日本でも魂の存在に変わるでしょう?そして成仏するか彷徨うかするでしょう?その時に目の前に箱があればそこに入ることができます。成仏せずに箱の中にいられますから」
老師は仏教の視点で語っているが、たしかにどんな宗教でも魂の存在を否定することはなかったと思う。
「テンドウさんが寿命を迎えて死んだ時に、自らその箱に入ったとします。天道宗は箱の中の霊を生きている人間に取り憑かせる術を使える。そう考えるとテンドウさんが色々な時代に現れたのも説明できると思いませんか?」
「いや、でもそれって……天道自身が霊と混ざり合って苦しくないですか」
俺の疑問をハオさんが老師に訳す。
「そうですね。もしかしたら霊を集める機能をある程度は調整できるのかもしれません。またもしかしたら、テンドウさんが哀れな霊達を喰らうための術だったかもしれません」
と、そこで老師がホッホッホと笑った。
「もちろんこれは可能性の話です。シノミヤさんの話を聞いて先生が思いついた空想です。実際には先程お伝えした通り、テンドウさんとはテンドウシュウのリーダーの役職だと考えています」
ハオさんは面白そうに語る。
老師の通訳をしているだけとはいえ、ハオさん自身も俺達の困惑を見て楽しんでいるようだ。
老師のオカルトじみた考察を抜きにしても、現状は相当やばいことが理解できた。
天道宗は間違いなく悪意を持ってあの箱を使用している。
武器として。
霊達を集めて蠱毒をしているのだから、呪いに使うのは正しい使い方と言えなくもないが、それにしてもタチが悪いし目的も見えない。
経営者を脅して何をするつもりだ?
金を要求?
それだけなら可愛いものだ。
今までどれほどの人間に箱を送りつけている?
それすら何の手がかりもない。
老師からそれ以上の情報を得ることは出来なかったが、もうすでに俺の頭は半分しか働かない。
一旦情報を整理しなければ。
ポンコツになった俺の代わりに伊賀野さんや篠宮さんが思い思いに質問をして、俺達は席を立った。
食事をしていくか聞かれたが丁重に辞退して、老師とハオさんに挨拶をして真っ赤な個室を出た。
寂れた様子の店内に戻ると、夢から覚めたような気分になる。
今まで見ていたのは悪い夢でした。
そうであればどれほど楽か。
今日の収穫。
老師が天道のことを知っていた理由は分かった。
来日してから老師は日本にいる中国人の知り合いを頼って、日本の宗教家や霊能者とコンタクトを取り続け、細い糸を手繰り寄せるように天道の情報を集めた。
その糸が伊賀野さんの友人の霊能者にたどり着いて、悲しい一家の事件を通じて俺達とも繋がった。
そして深夜ラジオの騒動を経て俺達は老師の話を聞くためにここへ来た。
今後も継続的に情報を交換する約束を取り付けたのはお互いにとって有益だろう。
老師の目的が見えないのは引っかかるが、それでも天道宗の脅威に比べれば全然マシだ。
天道宗のやっていること。
それはもはや俺達個人のレベルでどうこうできる問題じゃない。
それこそ本部を探し出して乗り込むぐらいしか思いつかない。
そんなことできるのだろうか。
「いやあ楽しくなってきましたね」
んん~と伸びをしながら篠宮さんが言った。
楽しく?
あの話のどこに楽しい要素があったのだろうか。
「楽しいって……かなりヤバい事態じゃないですか」
とりあえずツッコミを入れる。
伊賀野さんも眉間に皺を寄せ首を傾げている。
それを意にも介さず篠宮さんはあっけらかんと言う。
「かなりヤバいですけど、まだ間に合うんじゃないですか?」
「なにが?」
「老師が言ってたでしょ?戦いはまもなく始まるって」
篠宮さんが不敵に笑う。
「その前にスッパ抜いてやりますよ。ウチの雑誌で特集組みます。ジローさんにも協力をお願いしてみます。『邪教天道宗がテロを企んでいる!?』みたいにキョーレツな見出しで煽りまくってやります。零細雑誌ですけど関係ありません。ありとあらゆるコネを使って大暴れしてやるつもりです」
篠宮さんは息継ぎしてるのかしてないのかわからないほどの早口で続ける。
何やら変なスイッチが入ってしまったようだ。
「ヨミ騒動にも天道宗の影があるって書いちゃって良いと思うんです。その辺を事実に基づいて考察を述べればネットなんかすぐに広まりますよ。大炎上商法でウチの雑誌もウハウハ。陰でコソコソ悪いことしてる奴らを表舞台に引っ張り出してやりましょう」
「それで……どうするの?」
篠宮さんがやろうとしていることはわかった。
だが危険はないのか?
「もしも篠宮さんの会社に箱が送られてきたら?」
そう言ったら篠宮さんはニカッと笑った。
「その時はご協力お願いします。また皆さんに集まってもらって、今度こそ箱の中の霊を無力化、あるいは呪術から解放してあげられるように手を尽くすと」
なるほどね、と伊賀野さんが大きく頷いた。
「面白そうじゃない。私もそっちの方が好きかな。今の何もわからない状態よりは攻めの姿勢の方が遥かにマシ」
「ですよね。実際に人が何人も亡くなってるんで、とっくの昔に緊急事態なわけですよ。世間の関心を得ることで注意を促すことにもつながりますし、箱を送られて脅されてる人達の助けにもなれるかも」
そう言って篠宮さんは頷き胸を張った。
「名誉毀損とかにならないの?」
「裁判?上等ですよ。名誉毀損で負けたら下手したら何百万か払わないといけないですけど……そうなったら両親に借金するしかないか……まあそれはいいとして、逆に考えればそれで天道宗を表舞台に引っ張り出せるなら安いもんです。だからその際はカンパお願いしますね笑」
「カンパって………」
ふざけてるのか?
ふいに篠宮さんが真面目な顔をして人差し指を立てた。
「いやこれ普通に危機ですから、そこに共感してくれる人を探すのはそれほど難しいことでもないと思うんです。ほら、笠根さんの宗派の本山とか」
「…………」
そういうことか。
あまりにあっけらかんと言うので呆れてしまったが、要するに天道宗との対決に金を出せということだろう。
いざ訴訟という時のスポンサーさえ見つかれば篠宮さん自身が矢面に立つと。
両親に借金までする覚悟があると。
「ぶっちゃけその手しかないと思うんですよね。今さら天道宗の行方を追ったところで天道宗に先を越されたら意味ないですから。この手なら私達が先手を打つことができます」
先手……そんなもの打てるとは思ってなかった。
リスクはあるものの、先手という言葉にはたまらなく胸を昂らせる響きがある。
天道宗が何十年に渡って準備してきた計画に対して、先手を打って邪魔をする。
何という魅力的な提案だろう。
「わかりました。この話はとりあえず一旦持ち帰りましょう。嘉納さんならスポンサーを見つけてくれるかもしれませんし、もしかしたら嘉納さん自身がスポンサーに……ならないと思いますけど、とにかく一度皆さんの意見を聞きたいと、そう思います」
篠宮さんの勢いに対抗したわけではないが、俺もかなり早口になってしまった。
興奮しているのが自分でもわかる。
伊賀野さんを見るとギラついた笑みを浮かべている。
やる気だ。
「皆さんの意見を聞いて、他に案が出ないようならその案で良いと私も思います。本山に金銭的な支援を要請するのは私が住職に頼んでおきます。皆さんの意見をまとめるのは篠宮さんお願いできますか?」
「もちろんです」
「私は引き続き丸山理恵さんの霊と交流してみる。決定的な情報を持っていると信じてるから」
伊賀野さんが自分の方針を宣言する。
彼女の役割も非常に重要だ。
「…………」
ふと心がずいぶん軽くなっていることに気がついた。
先程までの、天道宗の影の大きさにビビって尻込みしていた気分がすっかり晴れている。
それどころか篠宮さんの提案に興奮してさえいる。
「…………」
改めて篠宮さんに顔を向ける。
あの時、老師の話を聞きながらこんな手を考えていたのか。
俺とはまるで反対に、攻め手を考えていたのか。
フムとため息をついて腕を組む。
「いやあ篠宮さん、ぶっちゃけ私さっきまでビビってたんですがね」
心だけでなく声も軽い。
篠宮さんがハテと首を傾げる。
「篠宮さんのおかげでずいぶんと心が軽くなりましたよ」
そう言って口を笑の形に結ぶ。
篠宮さんはニカッと笑って頷いた。
「私って昔から後先考えないタイプなんで笑。両親からもよく怒られてました。ペンは剣より強しと言いますし、ここはペンのチカラで1発ぶん殴ってやろうかとまあ、いちライターとして思ってしまったわけです笑」
「いいじゃないの。私も篠宮さんタイプだから、守備より攻撃の方がやりやすいわ」
伊賀野さんもいつも通りの覇気を漲らせて笑う。
「多分だけど皆の意見もそう変わらないと思うし、篠宮さんが書く記事を楽しみにしてる」
そう言って伊賀野さんは振り返った。
「私はもう帰るね。今すごく丸山理恵さんに会いたいから」
「あれ?丸山理恵さんって和美さんに憑いてるんじゃないの?」
そういえばそうだった。
どこにも丸山理恵さんの気配がない。
「なんかウチの庵が落ち着くみたい。だから庵で自由にしてもらってる。これから帰って改めて彼女と話をしてみるわ」
駐車場へ向かう伊賀野さんは背を向けたまま顔だけ振り返ってそう言った。
「頑張って!」
離れていく伊賀野さんの背中に声をかけると、伊賀野さんは振り返らず手をひらひらと振った。
「私もこれから会社に戻ります。編集長を捕まえて次の号の特集を差し替える話をつけなきゃ」
俺と篠宮さんは電車なのでそのまま関内駅へと歩き出す。
歩きながらも篠宮さんのトークは止まらない。
どうやら彼女の頭の中では、すでに特集記事の内容は出来上がっているようだった。
何万部増やしても大丈夫だとか、Yahooのトップページに載るようにどこそこに記事を提供するだとか、俺にはサッパリ分からないことも延々と喋り続ける篠宮さんに、相槌ともため息とも言える声を出しながら、俺達は駅まで歩いた。
「とにもかくにも反撃開始ですよ、笠根さん」
別れ際、関内駅のホームで篠宮さんはそう言った。
反撃開始。
俺自身は天道宗に何かされたわけでもないのだが、心情的には反撃開始で間違いない。
「危ないことはしないでくださいよ篠宮さん。私は私でちゃんと本山を説得してみますし、何かあればすぐに駆けつけますから、各個撃破されないように注意してくださいね。夜道で背中からブスリとやられることだけは避けるようにしてください」
オッサンらしく説教じみた口調になってしまったが、篠宮さんは良い笑顔でハイと頷いた。
電車に乗り込む篠宮さんを見送る。
こうして見ると普通のOLさんにしか見えないのに、心霊的な場数もバイタリティも俺より遥かに優れている。
ワカモノに負けない強い中年になりたいものだとため息をつく。
「…………」
ため息をついてる時点で負けてるよねと思ったら笑いが込み上げてきた。
動き出した電車の中で手を振る篠宮さんに笑顔で手を振りかえす。
満面の笑みで手を振るオッサンに何と思ったのかは聞かないでおこう。
走り出した電車を見送りながら、俺は何年かぶりに感じる使命感に胸を昂らせていた。
闇の鳴動 完