夕方まであてどもなく渋谷の街を歩いた。
腹が減ったらファーストフードで飯を食い、店から出たらまた歩き続けた。
途中何度も木崎美佳の姿をしたモノがちょっかいをかけてきた。
背中の後ろで気味悪く笑ったかと思うと、交差点の向こう側でこっちを見ていたり、ファーストフードの店内で机の下から俺を見上げていたり、トイレを終えて手を洗う時に鏡の中から俺を見ていたり、もうありとあらゆるタイミングで存在をアピールしてきやがる。
「くそったれ」
木崎美佳がちょっかいをかけてくるたびに罵倒の言葉を吐いたが、木崎美佳は気持ち悪い笑みを浮かべてくっくっと笑うだけだった。
くそったれ。
ああくそったれだ。
慣れとともに恐れは薄らいでいき、代わりに苛立ちが募る。
死ねクソ野郎。
死ね死ね死ね死ね。
ああもう死んでるんだっけか。
じゃあもう一度死ね。
思考がドス黒く渦巻き、苛立ちが足を早める。
気がつくと代々木八幡宮のそばに来ていた。
何も考えずに代々木八幡宮に向かう。
また妨害してくるだろうか。
それならばアイツは神社を嫌がっているということだ。
そんなことを考えながら鳥居をくぐる。
あっさりとくぐれてしまった。
これでまた手がかりが一つ消えた。
というより手がかりはもう何一つ残っていなかった。
鳥居をくぐって神社の外に出る。
木崎美佳が鳥居の外でニヤニヤしながら待っていた。
くっくっと笑うソレを無視して階段を降りる。
『アレを抱えて生きていくしかない………』
笠根さんの言葉が蘇る。
適当なこと言いやがる。
アイツもクソ野郎だ。
ビビって逃げやがって。
坊主が聞いて呆れる。
『仏門に入って仏様のそばで………』
何が仏門だ。
お前なんにも出来ねーじゃねーか。
可哀想な男を見捨てやがって、お前は地獄行きだ。
馬鹿野郎が。
死ねクソ野郎。
地獄に落ちろ。
あの男もだ。
嘉納康明。
金の亡者め。
お前も地獄に落ちろ。
みんなまとめて地獄行きだ。
伊賀野も弟子達も斎藤さんも、みんなみんな死ねばいい。
使えない霊能者どもめ。
俺だけ苦しむなんて納得できるか。
不公平だろうが。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
くっくっと笑う声が自分の喉から出ていることに気づいて足が止まる。
「……………」
今のは……俺の本心なのか?
みんな死ねって?
いや違う。
俺はそこまでクズじゃない。
違う!俺じゃない!
苛立ちと不甲斐なさに頭をガシガシと掻く。
俺のせいであんな目に遭った伊賀野さんどころか斎藤さんまで。
呪う相手が違うだろうが。
何を考えてんだ俺は。
ふいに頭の後ろでくっくっと笑う声が聞こえた。
「うるせえっ!!」
苛立ちが爆発して振り返りつつ怒鳴る。
唖然とした顔で俺を見る通行人と目が合った。
買い物中であろう中年女性はすぐに目を逸らして小走りで去っていった。
「ぐぅぅぅぅ…………」
目を閉じる。
唸り声が漏れる。
歯を食いしばりすぎて口の中が痺れる。
苛立ちと恥ずかしさと惨めさで血管が切れそうだった。
もう一度代々木八幡宮に行って神主さんにお祓いをお願いしてみようか。
いやダメだ。
笠根さんがいないと除霊中の動画も見せられない。
一見何の異常もない俺がいきなり押しかけたところで頭のおかしな男だと思われるだろう。
それに信じてもらえたとしても、もしまた被害者が出たら、それは今度こそ俺のせいだ。
ベッドに横たわる伊賀野さんの姿が目に浮かぶ。
タッキーの人懐こい顔が、真面目そうなお弟子さん達の顔が、悔しそうな伊賀野さんの顔が蘇る。
もう一度あんなことになったら、アイツのせいには違いないが俺のせいでもある。
そんなことはできない。
親に頼るなんてもってのほかだ。
アイツを連れて実家に帰るわけにはいかない。
「ちくしょう!!」
思わず天を仰いで叫ぶ。
「なんなんだ!!」
頭のおかしい男の吠える声が虚しく空に消える。
考えても答えなんか出ない。
焦りと苛立ちが残るだけだ。
くっくっと笑う後ろのヤツを無視し続けるのもうんざりだった。
「…………」
ビルの隙間に覗く夕暮れを見上げてため息をつく。
「…………」
手詰まりか。
本当に打つ手はないのか。
「…………」
ビルの合間をザアッと風が渦巻いて消えてゆく。
これが絶望なのかと虚ろに思う。
もう日が暮れる。
自宅には戻りたくない。
一人の部屋に戻ればいよいよアイツは俺を殺すだろう。
そうでなくても滅茶苦茶やられるのは目に見えていた。
「…………ダメか」
夕暮れの空に呟く。
「……おーい……」
どこかで聞いた声が遠く聞こえた気がした。
とりあえず駅に向かう。
どこに行くのか決めていない。
ただ人のいるところ、電車の中でなら眠れそうな気がした。
駅までの道すがら、交差点に花が供えられているのを見つけた。
小さな瓶に数本の花が可愛らしく生けられている。
それを見た瞬間、胸を締めつける感情のうねりに包まれた。
もどかしくて悲しくて寂しくて焦ってどうにもならない猛烈な感情が溢れてくる。
目から涙が溢れて地面にボタボタと落ちる。
なんだこれは。
激情に翻弄される頭で必死に言葉を探す。
なんだこれは。
この状態はなんなんだ。
不意に口から言葉が漏れた。
「……マ…マ…………」
その言葉を口にした瞬間、溢れてくる涙が倍増した。
嗚咽をこらえきれず口を押さえて泣く。
周りにも聞こえているだろうがそんなことでは涙は止まらなかった。
「……ママ……ママ……ママぁ………うええ……」
ママ?
俺はママと言っているのか?
今まで母のことをママなんて呼んだ覚えはない。
だとしたらこれは?他人の感情か?
あの花瓶の場所で……死んだ子供……多分女の子だ……少女……すごく小さな……
止まらない嗚咽で息苦しいことを意識する。
泣き止まねば。
うっく、うっくと震える肩を抱いて大きく息をする。
激情が幾分か収まったようだ。
猛烈な悲しみはまだ胸の中に渦巻いている。
しかしこの場を離れることはできそうだ。
交差点から離れてまっすぐ歩く。
離れれば離れるほどに感情のうねりは静まっていく。
100メートルも離れるとようやく落ち着いた。
これはきっとあれだ。
心霊体験だ。
あの交差点で亡くなった少女の霊に取り憑かれた?
一時的にせよなんにせよ、あの場にとどまっている少女の想いを感じたのは間違いなさそうだ。
くっくっと笑う声が聞こえる。
声のした方を向くと木崎美佳が立っていた。
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
コイツか。
やりやがったな。
どうやったのか知らないが、コイツがあの少女の霊を俺にけしかけてきたのだ。
「死ね……」
どうにかそれだけ呟いて木崎美佳に背を向けて歩き出す。
あの交差点を避けると駅まで少し遠回りになる。
それでもあんな感情をまた感じるなんてごめんだ。
違う道を歩いて行こう。
「くそったれが」
悪態だけは威勢良く出てくる。
その勢いに乗るように早足で歩く。
駅に到着して山手線に乗る。
数駅過ぎたあたりで座ることができた。
座席に背を預けるとすぐに眠気が襲ってきた。
眠りに落ちる寸前、どこか遠くで「おーい」と呼ぶ男の声が聞こえた気がした。
夢を見ていた。
どんな夢だったか思い出せないがひどく恐ろしい夢だった気がする。
隣に座る男が迷惑そうに咳払いをした。
どうやら寄りかかっていたらしい。
すいませんと軽く頭を下げてスマホを取り出す。
時刻は19時過ぎ。
会社からのLINEが数件。
それ以外の着信はなかった。
電車はさほど混んでないが座席は全て埋まっている。
車内を見回すと俺と反対側の席列の少し離れたところに木崎美佳が座っていた。
クソ野郎がここでも俺を見ている。
窓の外はもう暗くなっている。
どうするべきか。
そう考えていると鼻水が垂れた。
やべえと思いながら手で鼻を抑えるとヌルッとした感触。
違和感を感じて手を見ると赤黒い血がベットリついていた。
「うわ…」と誰かが呟く。
なんだこれは、どうなってる。
そう思う間にも鼻血はどんどん溢れてくる。
急いで鞄からティッシュを取り出すが鼻血は溢れ垂れ続けている。
周りを汚さないように鼻をすする。
大量のドロリとした液体が喉奥に流れ込んでくる。
気持ち悪くて吐きそうになるが、吐き出したら大惨事になる。
なんとか飲み下すも次々に溢れてくる鼻血で既に俺も鞄も真っ赤に染まっている。
ティッシュを丸めて鼻に突っ込む。
あっという間にティッシュが血を吸ってただの赤い塊になる。
ざわつき始める周りを意識してしまい恐怖と羞恥で頭が爆発しそうになる。
「なんだよもう」と悪態をついて隣の男が席を立つ。
反対隣に座っていた女も席を立った。
止まらない鼻血と格闘しながらも恥ずかしさと惨めさに涙が溢れてくる。
なんなんだよ、なんなんだよと心の中で叫びながら必死に鼻を押さえる。
思い切り押さえた鼻の隙間から血が漏れ出し、行き場をなくした大量の血液が喉奥に流れ込んでくる。
電車が止まった。
鞄を掴んで電車から飛び出し、その場で思い切り吐き出した。
ホームの地面が赤黒く染まり、周りで悲鳴とも驚きともつかない声が上がる。
なおも続く吐き気に抗えず血と胃の中身を吐き出す。
駅員が走ってきて声をかけてくる。
大丈夫なわけないだろうが!と心の中で毒づきながらも手で大丈夫だと駅員を制する。
ようやく吐き気が収まり尻餅をつく。
気がつけば鼻血もやや止まってきてはいたが、すでに俺の体は血まみれになっていた。
荒い息を整えようと深呼吸する。
頭の中でガンガンと音が鳴り響く。
木崎美佳の姿はない。
だが間違いなくアイツの仕業だった。
「…………」
ここまでするか。
「…………」
痛みがどうのというよりも人として辛過ぎる。
今もどこかで俺を見て笑っているのだろう。
「………くそったれ………」
涙が溢れて止まらない。
しばらく泣き続けているとまた駅員が声をかけてきた。
「ああ、大丈夫です。ちょっと…鼻を打ったみたいで。ご迷惑をおかけしました」
救急車を呼ぶか聞かれたので断って立ち上がる。
トイレで顔を洗って手についた血も洗い落とす。
が、服や鞄は血まみれのままだ。
駅の外に出ると目白駅だった。
靄がかかったような思考の中で、一つの結論が形を結んだ。
笠根さんに電話する。
すぐに出た。
「前田さん、どうしました?……大丈夫ですか?」
「ああ、はい、大丈夫……ではないですね」
「………何か起きたんですか?」
「まあ色々と」
笠根さんがため息をつく音が聞こえる。
心配してくれているのだろう。
先ほどのように苛立つことはなかった。
「お願いがあるんです」
無言のままの笠根さんに伝える。
「車を、出してくれませんか」
「え?……ええ、構いませんよ」
思えば昼間に別れたばかりだ。
少し嫌そうだっがどうやら出してくれるようだ。
「それで、どちらに?」
その場所で合っているかどうかもわからなかったが、どうにか導き出した行き先を告げる。
「高尾山に」
時刻は23時になろうとしている。
周りは暗く人の気配はない。
昼間は賑わっているであろう土産物屋も全て閉まっている。
高尾山の山道入り口まで車で入り込み、高尾山薬王院という石碑が立っている道を車で進む。
一般車両進入禁止の看板があったが、笠根さんに無理を言って侵入してもらった。
車で行ける限界まで進み、車を降りる。
後は徒歩で登っていくしかない。
高尾山に向かう道中で調べたのだが、高尾山には登山道がいくつかあり、登山道によって難易度が全然違うらしく、もっとも険しい道はまるっきり山道で、もっとも楽な道はある程度は車で、さらにケーブルカーやリフトなんかも使えるらしい。
当然今は動いていないし、山頂に行くのが目的ではないので使う必要もない。
ある程度まで登れればいいのだ。
車を降りて山頂の方へ顔を向ける。
「前田さん、本当に山に入るんですか?」
笠根さんが聞いてくる。
事前に何をするつもりかは話してある。
考えを変えるつもりもない。
「はい。ここまでありがとうございました。後は俺一人で行きます」
笠根さんがタバコに火をつけフウーと煙を吐き出す。
「私も行きます、と言いたいところですが、どうやら無理のようです」
そう言って俺をまっすぐ見つめる。
なんだまたビビってるのか?
「後ろ、見えますか?」
そう言われて振り返る。
木崎美佳がいるのかと思ったが何もいなかった。
「見えない…ですね。何か見えるんですか?」
「あの時と同じですね。前田さんには見えていない。私にはしっかり見えてますよ。病院にいたのと同じ、狐が」
狐か。
どうやら間違っちゃいないらしい。
笠根さんに向き直る。
「今まで本当にありがとうございました。これで何がどうなるのか全然わかりませんけど、行くだけ行ってみます」
そう言って頭を下げる。
心には恐れが渦巻いているが、不思議と穏やかに言葉が出てきた。
笠根さんはタバコを携帯灰皿に押し込んで揉み消し、まっすぐ俺の目を見た。
「前田さん、必ず戻ってきてくださいよ」
その目は悲しいようで、申し訳なさそうで、どうにもやりきれない笠根さんの心が現れているようだった。
その時、車のヘッドライトが灯った。
エンジンを切っていたはずでヘッドライトはもちろん消えていたはずだ。
そのヘッドライトがついては消え、またついては消える。
不規則に明滅を繰り返すヘッドライトの様子に俺も笠根さんも一瞬言葉が出ない。
数舜して笠根さんが声を張り上げた。
「前田さん!行ってください。おそらくアレが何かするつもりなんでしょう。ここは私がなんとかしますから、前田さんは自分のするべきことをやってください」
そう言って車に向かって歩き出す。
その後ろ姿に恐れは感じられない。
笠根さんが両手を前に突き出して印を結んでいる。
「阿毘羅吽欠……南無大師遍照金剛……」
お経を唱えながら車に近づいて行く。
車がバン!と跳ね上がる。
数十センチ飛び上がりズンと音を立てて着地する。
「前田さん!行ってください!」
笠根さんが再度叫ぶ。
その声に頭を下げて振り返り、山の中へと走る。
山道を外れて木々の中へ。
途端に急勾配に足を取られて転げ落ち、止まったところですぐさま起き上がりまた走る。
すでに笠根さんの声は聞こえない。
周りには光は見えず完全に闇の中だ。
どの方向でも構わない。
我武者羅に枝をかき分け進む。
どれだけ走っただろうか。
遥か後方から木々が軋み枝が弾ける音が聞こえる。
アレが追ってきているのだ。
笠根さんはもうやられてしまったのだろうか。
無事でいてくれることを願いながらとにかく進む。
また崖に行き当たって、転がり落ちる。
身体中が擦り傷やら刺し傷だらけで血も出ているようだ。
それでも進む。
いつか終わりが現れる場所まで止まることだけはしない。
今アレに捕まったら今度こそ最後だ。
それだけはわかる。
自分の息づかいと、木々をかき分け枝を踏みしめる音、アレが木々をなぎ倒しながら迫ってくる音、轟々と周りで鳴り響く風だかなんだかよくわからない音、それらに混じって「……おーい……」と呼ぶ声が聞こえる。
間違ってない。
このまま進めば…………。
不意に耳元で「おい」という男の声が聞こえて飛び上がった。
そして何度目かわからない急勾配を転げ落ちて、起き上がろうと目を上げると、周りの木々の様子が何やら違って見えた。
いや、同じように山の暗闇の中なのだが、何かが違う。
木々の生え方が今まで走ってきた場所と少し変わっている気がする。
はあ、はあ、と自分の呼吸しか聞こえない。
アレが迫ってくる音も聞こえない。
静寂だ。
真っ暗な静寂の中で目を凝らす。
パキッと枝を踏む音がして振り返ると、目の前に赤い着物を着た女の人が立っていた。
「……あ……あ……うう……」
幼い頃に経験した悪夢。
トラウマが蘇って全身が震える。
汗だくだったのに寒い。
それまでとは違う汗が吹き出してくる。
背中がぐっしょりと濡れて服が張り付く。
流石に今度は漏らしたりはしなかったが、それでも恐怖で叫び出す寸前で硬直していた。
クスクス クスクスクス
笑っている。
あの時と同じように口元に手をやりクスクスと笑う。
狐目は俺を見据えて動かない。
「取って食べよか」
クスクス
「親御の元に戻そうか」
クスクスクスクス
歌うようにそう言って笑う。
クスクスクスクス
クスクス
クスクスクス
「汚い童が泣いておる」
クスクス
「おお、憐れ憐れ」
クスクスクスクス
「あ……あの……」
言葉が出てこない。
目の前の存在に完全に怖気付いていた。
入っちゃいけないと言われていた山に自ら入ったのだ。
あの時も、今も。
山に入ったからこの神様の手が届いてしまった。
今度こそ食われるだろう。
「あの……あ…あの……」
まさに口を開けた蛇を前にしたカエルだ。
飲み込まれるのを待つだけの死に体。
「おお汚い、汚い汚い」
クスクス
顔を背けて眉間に皺を寄せて笑う。
その目は俺から離れない。
「おいしくなさそう」
クスクス クスクスクスクス
どくん、と体の中で何かが大きく脈打つのがわかった。
同時に激しい吐き気と頭痛。
ものすごい嘔吐感に襲われ、たまらず吐き出す。
血だ。
大量の血液が口から噴水のように吹き出した。
酒だけを飲み続けた時のように、勢いよく血が喉奥から吹き出してきた。
「おお、汚い汚い」
クスクス
「いやだいやだ」
クスクスクスクス
口元の手を少し引き上げて身をすくめる。
しばらくそうして俺を見ていたのち、また「取って食べよか」と言って笑った。
ようやく血を吐き終えた俺は跪いて手をついた。
「親御の元に戻そうか」
言わなければならない。
「取って食べよか」
クスクス
今日は自分の意思で会いにきたのだ。
「親御の元に戻そうか」
クスクスクスクス
「……食べてください」
そう言って頭を下げる。
「取って食べよか」
「はい。お願いします。食べてください」
「親御の元に戻そうか」
「悪い霊に取り憑かれたんです。もう生きてはいられないでしょう」
「取って食べよか」
「であれば最初にお会いしたあなたに、貴方様に食べていただきたい」
「親御の元に戻そうか」
「あんなくそったれに殺されるぐらいなら!」
「取って食べよか」
「望むところだ!ひと思いに食ってくれ!!」
「ほおら、取れた」
…………
…………え?
何と言われたのだろう。
頭が追いつかない。
しかし何だこれは。
体が、苦しさが、吐き気が、ない。
クスクス クスクスクスクス
顔を上げて女の人を見る。
赤い着物の女の人は変わらず口元に手をあてて笑っている。
「おお、汚い汚い」
クスクスクスクス
右手を口元に当て、左手に黒い何かをぶら下げている。
その手に握られた何かがモゾモゾと動いている。
そして途端にそれが大きくのたうつように暴れ始めた。
人のようだ。
あれは黒い髪の人、のようなモノだ。
見覚えがあった。
笠根さんのスマホで見た映像に映っていた、除霊中の俺の姿。
霊が前面に出てきたと言っていたから、おそらくあの長い髪が本来の姿なのだろうソレを、赤い着物の女の人が左手にぶら下げていた。
首を後ろから鷲掴みにする格好だ。
ソレは激しく暴れ、女の人の手から逃れようとしているようだった。
グルルルと獣のような唸り声をあげ、同時に「あああ」「オオオン」「ギギギッ!ギギギギィ!」と不快な声で叫んでいる。
思っていたよりもソレは小さく、人間なら子供くらいの大きさだった。
対して女の人は大人の俺と比較してもやや大きい。
体格はまさに大人と子供だった。
「取ったら食べよか」
クスクス
女の人がソレの首を持ったまま左手を持ち上げる。
「おいしくなさそう」
クスクスクスクス
女の人が右手で激しく暴れるソレの片手を掴み、肩に噛み付いた。
ボリッと音が聞こえた。
「ギイィィオおオおぉ!!!!!」
続いてソレの絶叫が響いた。
この世のものとは思えない凄まじい叫び声が木々の暗闇に飲み込まれていく。
女の人は口元を真っ赤にして口をもぐもぐと動かしている。
続いて右手に持っていたソレの片手の残りを一息に口の中に放り込んだ。
口が異様に大きく開き、子供サイズの片腕がすっぽりと口の中に収まった。
ゴリッボキッと骨ごと咀嚼する音が聞こえてくる。
左手に悶え苦しむソレを捕まえたまま、ゆっくりと咀嚼を終えてゴクリと飲み込んだ。
2メートルは離れているのに、飲み込む音が聞こえるかのように、女の人の喉がごっくんと動いたのが見えた。
続いて女の人はソレの片足をつまんで伸ばし、太ももの付け根に齧り付いた。
再びゴキッボギボギボギ!と嫌な音がして、女の人の右手につままれたソレの片足がだらんと垂れ下がった。
再び響く絶叫。
続いて足の残りを食べ終えた女の人は、同じように残った片腕片足と順番に齧り付き、両手足を失ったソレが息絶え絶えにピクピク動いてる状態のまま両手で持って、今度は横から腹に齧り付いた。
ビクンと大きく動いてソレは動きを止めた。
しばらくピクピクしていたが、やがてそれもなくなった。
絶命したのだ。
もはや動かなくなった肉塊を女の人がゆっくり時間をかけて食べ終えるまで、俺はその場から動けなかった。
目をそらすこともできなかった。
俺を散々苦しめてきたアレがこうして食われて死んだ。
俺はようやくアレから解放されたのだ。
そして今、ソレを食べ終えようとしているこの神様は、次は俺を食うだろうか。
あんな食べ方を、殺され方を、するのだろうか。
そしてかつて一緒に山に入って帰ってこなかったAとBは、こんな風に生きたまま食べられたのだろうか。
恐れが全身を貫いて体を地面に縫い止めていた。
もうこの状況でどうにかすることは考えられなかった。
跪いたままの格好で、俺は女の人を見上げ、静かにその光景を見ていた。
口元を拭った女の人は俺に目を向け笑った。
「取って食べよか」
クスクス
顔こそ血をぬぐって綺麗になっていたが、ニイッとむき出した歯は血で真っ赤に濡れていた。
「親御の元に戻そうか」
クスクスクスクス
そう歌うように笑いながらゆっくり近づいてくる。
「……………」
食べてくれと言ったのだから食べられるに違いない。
「取って食べよか」
しかしこの歌には選択肢がある。
「親御の元に戻そうか」
もしも頼んだら……あの時のように……
「取って食べよか」
俺は跪いたまま頭を地面にこすりつけた。
「お願いします……」
「親御の元に戻そうか」
「助けてください」
「取って食べよか」
「お願いします……帰してください……」
「親御の元に戻そうか」
「お願いします!帰してください!!」
それきり女の人は歌うような言葉を続けずクスクスと笑うだけになった。
「…………」
考えているのだろうか。
俺を帰すかどうか。
考えてる?この狂った神様が?
「あらあ。狂ってるとは心外だねえ」
クスクスクスクス
「っ!——し、失礼しました!」
なんと、思わず口から考えが漏れたか。
いや、頭の中を読まれたのか。
しかし、この神様が初めてまともに喋った。
「まあいいさ」
クスクス
神様は相変わらず楽しそうにクスクス笑っている。
「また会いにおいでえな」
クスクスクスクス
「今度はちゃあんと食べるからさ」
クスクスクスクス
そう言って神様は暗闇に溶けるように消えてしまった。
ザアッと風が渦を巻いて木々を震わせる。
木々の揺れが収まった時、また周囲に生える木の種類が変わっていた。
先ほどまでの原生林とは違う感じの、ここは……高尾山だ。
とするとさっきまでいたのは……。
ヴヴヴとポケットの中でスマホが振動した。
あれほど転げ回ったのに壊れずに済んでいたらしい。
スマホを取り出すと深夜0時を回っていた。
笠根さんと別れてから1時間経っていない。
スマホには笠根さんからのLINEメッセージが表示されている。
《車の場所で待っています》
その場所に戻れる自信がなかったので笠根さんに電話をかける。
ワンコールで繋がった。
「前田さん?無事ですか?」
緊張して早口に喋る笠根さんの声がひどく嬉しい。
「笠根さん……終わりましたよ……全部……アイツはもういません」
思わず笑顔になる。
変な笑い声になってしまいそうだ。
「早く話したいんで、迎えに来てくれませんか?ここがどこだかわからなくて」
「前田さん!?終わったって…ええ?……今…今、どこです?どこにいるんですか?」
「だから……へへ……終わったんですよ。解決です。それとここがどこかわからないんで、助けていただきたいんですが」
はああ〜と笠根さんが大きく息を吐くのが聞こえる。
「前田さん…前田さん!…あなた……生きてるんですね?」
涙声になっている。
笠根さんの心が伝わってきてニンマリしてしまう。
「ええ、生きてますよ。傷だらけであちこち痛いし、ここがどこかわからなくて遭難中ですが、生きてます」
「ああ……」
グズグズッと鼻をすする音が聞こえる。
しばらく黙った後、
「良かった、前田さん、とにかく今から迎えに行きますので、スマホで現在地をマップに表示して、その情報を送ってくれますか?」
おおう、その手があったか。
スマホって便利だよね。
ここは高尾山だ。
都内だ。
山の中といえど電波はバリバリ入っている。
それから笠根さんに現在位置を送って、木に背中を預けて座り込む。
目の前には暗闇が広がっている。
しかし恐れは感じなかった。
凄まじい恐怖が終わったのだ。
しかも子供の頃に植え付けられたトラウマは新たなトラウマで上書きされた。
もしまた山に入れば今度こそあの神様に喰われるかもしれない。
しかし今は大丈夫だろう。
見逃してもらった直後なら、また攫われることもないはずだ。
遠くに懐中電灯のライトが見える。
子供の頃に騙された光とは違って、こちらへ向かって来るのに四苦八苦してるのがわかる。
笠根さんに呼びかける。
「おーい!……ここにいますよー!……」
そう言ってスマホを光らせて振る。
「前田さーん!……もうちょっとでーす!……」
笠根さんが近づいて来るごとに嬉しさがこみ上げて来る。
人の良い坊さんに今度何かご馳走しないとな。
タッキーやお弟子さん達の墓にお礼に行って、伊賀野さんのお見舞いに行って、嘉納康明に嫌味の手紙を書こう。
自力で解決しましたってね。
まあ全然自力じゃないけども。
「前田さん!」
懐中電灯で顔を照らされ、視界が真っ白になる。
すぐに光がそらされ、笠根さんが目の前に飛び出てきた。
「笠根さん、どうも」
座ったまま手を上げて応える。
立ち上がろうとして、足腰に力が入らないことに気づいた。
「すいません。立てません。力尽きました」
そういうと笠根さんが手を差し出してきた。
笠根さんの肩を借りて車に戻る。
ヨタヨタしながらだったので3時間近くかかってようやく車に戻った頃には笠根さんもヘトヘトになっていた。
運転席と助手席に乗り込んでしばらく息を整える。
ここまで戻る間に笠根さんには事の顛末を全て詳細に話し終えていたし、俺達に出来る限りの考察をしてみたのだが、未だにわからないことは多かった。
あの霊はなんだったのか。
なぜ俺に憑いたのか。
あの神様はなんだったのか。
なぜ俺を助けたのか。
考えてもわかるはずもない疑問は脇に置いて、今は少しだけ眠ろう。
夜が明ければ病院に行って、会社にお詫びの連絡をして、それからのことはその時に考えよう。
服は血だらけで気持ち悪かったが、それでも疲労に身を委ねる心地よさに、俺は目を閉じた。