夕方まであてどもなく渋谷の街を歩いた。
腹が減ったらファーストフードで飯を食い、店から出たらまた歩き続けた。
途中何度も木崎美佳の姿をしたモノがちょっかいをかけてきた。
背中の後ろで気味悪く笑ったかと思うと、交差点の向こう側でこっちを見ていたり、ファーストフードの店内で机の下から俺を見上げていたり、トイレを終えて手を洗う時に鏡の中から俺を見ていたり、もうありとあらゆるタイミングで存在をアピールしてきやがる。
「くそったれ」
木崎美佳がちょっかいをかけてくるたびに罵倒の言葉を吐いたが、木崎美佳は気持ち悪い笑みを浮かべてくっくっと笑うだけだった。
くそったれ。
ああくそったれだ。
慣れとともに恐れは薄らいでいき、代わりに苛立ちが募る。
死ねクソ野郎。
死ね死ね死ね死ね。
ああもう死んでるんだっけか。
じゃあもう一度死ね。
思考がドス黒く渦巻き、苛立ちが足を早める。
気がつくと代々木八幡宮のそばに来ていた。
何も考えずに代々木八幡宮に向かう。
また妨害してくるだろうか。
それならばアイツは神社を嫌がっているということだ。
そんなことを考えながら鳥居をくぐる。
あっさりとくぐれてしまった。
これでまた手がかりが一つ消えた。
というより手がかりはもう何一つ残っていなかった。
鳥居をくぐって神社の外に出る。
木崎美佳が鳥居の外でニヤニヤしながら待っていた。
くっくっと笑うソレを無視して階段を降りる。
『アレを抱えて生きていくしかない………』
笠根さんの言葉が蘇る。
適当なこと言いやがる。
アイツもクソ野郎だ。
ビビって逃げやがって。
坊主が聞いて呆れる。
『仏門に入って仏様のそばで………』
何が仏門だ。
お前なんにも出来ねーじゃねーか。
可哀想な男を見捨てやがって、お前は地獄行きだ。
馬鹿野郎が。
死ねクソ野郎。
地獄に落ちろ。
あの男もだ。
嘉納康明。
金の亡者め。
お前も地獄に落ちろ。
みんなまとめて地獄行きだ。
伊賀野も弟子達も斎藤さんも、みんなみんな死ねばいい。
使えない霊媒師どもめ。
俺だけ苦しむなんて納得できるか。
不公平だろうが。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
くっくっと笑う声が自分の喉から出ていることに気づいて足が止まる。
「……………」
今のは……俺の本心なのか?
みんな死ねって?
いや違う。
俺はそこまでクズじゃない。
違う!俺じゃない!
苛立ちと不甲斐なさに頭をガシガシと掻く。
俺のせいであんな目に遭った伊賀野さんどころか斎藤さんまで。
呪う相手が違うだろうが。
何を考えてんだ俺は。
ふいに頭の後ろでくっくっと笑う声が聞こえた。
「うるせえっ!!」
苛立ちが爆発して振り返りつつ怒鳴る。
唖然とした顔で俺を見る通行人と目が合った。
買い物中であろう中年女性はすぐに目を逸らして小走りで去っていった。
「ぐぅぅぅぅ…………」
目を閉じる。
唸り声が漏れる。
歯を食いしばりすぎて口の中が痺れる。
苛立ちと恥ずかしさと惨めさで血管が切れそうだった。
もう一度代々木八幡宮に行って神主さんにお祓いをお願いしてみようか。
いやダメだ。
笠根さんがいないと除霊中の動画も見せられない。
一見何の異常もない俺がいきなり押しかけたところで頭のおかしな男だと思われるだろう。
それに信じてもらえたとしても、もしまた被害者が出たら、それは今度こそ俺のせいだ。
ベッドに横たわる伊賀野さんの姿が目に浮かぶ。
タッキーの人懐こい顔が、真面目そうなお弟子さん達の顔が、悔しそうな伊賀野さんの顔が蘇る。
もう一度あんなことになったら、アイツのせいには違いないが俺のせいでもある。
そんなことはできない。
親に頼るなんてもってのほかだ。
アイツを連れて実家に帰るわけにはいかない。
「ちくしょう!!」
思わず天を仰いで叫ぶ。
「なんなんだ!!」
頭のおかしい男の吠える声が虚しく空に消える。
考えても答えなんか出ない。
焦りと苛立ちが残るだけだ。
くっくっと笑う後ろのヤツを無視し続けるのもうんざりだった。
「…………」
ビルの隙間に覗く夕暮れを見上げてため息をつく。
手詰まりか。
本当に打つ手はないのか。
「…………」
ビルの合間をザアッと風が渦巻いて消えてゆく。
これが絶望なのかと虚ろに思う。
もう日が暮れる。
自宅には戻りたくない。
一人の部屋に戻ればいよいよアイツは俺を殺すだろう。
そうでなくても滅茶苦茶やられるのは目に見えていた。
「…………ダメか」
夕暮れの空に呟く。
「……おーい……」
どこかで聞いた声が遠く聞こえた気がした。
とりあえず駅に向かう。
どこに行くのか決めていない。
ただ人のいるところ、電車の中でなら眠れそうな気がした。
駅までの道すがら、交差点に花が供えられているのを見つけた。
小さな瓶に数本の花が可愛らしく生けられている。
それを見た瞬間、胸を締めつける感情のうねりに包まれた。
もどかしくて悲しくて寂しくて焦ってどうにもならない猛烈な感情が溢れてくる。
目から涙が溢れて地面にボタボタと落ちる。
なんだこれは。
激情に翻弄される頭で必死に言葉を探す。
なんだこれは。
この状態はなんなんだ。
不意に口から言葉が漏れた。
「……マ…マ…………」
その言葉を口にした瞬間、溢れてくる涙が倍増した。
嗚咽をこらえきれず口を押さえて泣く。
周りにも聞こえているだろうが、そんなことでは涙は止まらなかった。
「……ママ……ママ……ママぁ………うええ……」
ママ?
俺はママと言っているのか?
今まで母親のことをママなんて呼んだ覚えはない。
だとしたらこれは?他人の感情か?
あの花瓶の場所で……死んだ子供……多分女の子だ……少女……すごく小さな……。
止まらない嗚咽で息苦しいことを意識する。
泣き止まねば。
うっく、うっくと震える肩を抱いて大きく息をする。
激情が幾分か収まったようだ。
猛烈な悲しみはまだ胸の中に渦巻いている。
しかしこの場を離れることはできそうだ。
交差点から離れてまっすぐ歩く。
離れれば離れるほどに感情のうねりは静まっていく。
100メートルも離れるとようやく落ち着いた。
これはきっとあれだ。
心霊体験だ。
あの交差点で亡くなった少女の霊に取り憑かれた?
一時的にせよなんにせよ、あの場にとどまっている少女の想いを感じたのは間違いなさそうだ。
くっくっと笑う声が聞こえる。
声のした方を向くと木崎美佳が立っていた。
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
コイツか。
やりやがったな。
どうやったのか知らないが、コイツがあの少女の霊を俺にけしかけてきたのだ。
「死ね……」
どうにかそれだけ呟いて木崎美佳に背を向けて歩き出す。
あの交差点を避けると駅まで少し遠回りになる。
それでもあんな感情をまた感じるなんてごめんだ。
違う道を歩いて行こう。
「くそったれが」
悪態だけは威勢良く出てくる。
その勢いに乗るように早足で歩く。
駅に到着して山手線に乗る。
数駅過ぎたあたりで座ることができた。
座席に背を預けるとすぐに眠気が襲ってきた。
眠りに落ちる寸前、どこか遠くで「おーい」と呼ぶ男の声が聞こえた気がした。
夢を見ていた。
どんな夢だったか思い出せないがひどく恐ろしい夢だった気がする。
隣に座る男が迷惑そうに咳払いをした。
どうやら寄りかかっていたらしい。
すいませんと軽く頭を下げてスマホを取り出す。
時刻は19時過ぎ。
会社からのLINEが数件。
それ以外の着信はなかった。
電車はさほど混んでないが座席は全て埋まっている。
車内を見回すと俺と反対側の席列の少し離れたところに木崎美佳が座っていた。
クソ野郎がここでも俺を見ている。
窓の外はもう暗くなっている。
どうするべきか。
そう考えていると鼻水が垂れた。
やべえと思いながら手で鼻を抑えるとヌルッとした感触。
違和感を感じて手を見ると赤黒い血がベットリついていた。
「うわ…」と誰かが呟く。
なんだこれは、どうなってる。
そう思う間にも鼻血はどんどん溢れてくる。
急いで鞄からティッシュを取り出すが鼻血は溢れ垂れ続けている。
周りを汚さないように鼻をすする。
大量のドロリとした血が喉奥に流れ込んでくる。
気持ち悪くて吐きそうになるが、吐き出したら大惨事になる。
なんとか飲み下すも次々に溢れてくる鼻血で既に俺も鞄も真っ赤に染まっている。
ティッシュを丸めて鼻に突っ込む。
あっという間にティッシュが血を吸ってただの赤い塊になる。
ざわつき始める周りを意識してしまい、恐怖と羞恥で頭が爆発しそうになる。
「なんだよもう」と悪態をついて隣の男が席を立つ。
反対隣に座っていた女も席を立った。
止まらない鼻血と格闘しながらも恥ずかしさと惨めさに涙が溢れてくる。
なんなんだよ、なんなんだよと心の中で叫びながら必死に鼻を押さえる。
思い切り押さえた鼻の隙間から血が漏れ出し、行き場をなくした大量の血液が喉奥に流れ込んでくる。
電車が止まった。
鞄を掴んで電車から飛び出し、その場で思い切り吐き出した。
ホームの地面が赤黒く染まり、周りで悲鳴とも驚きともつかない声が上がる。
なおも続く吐き気に抗えず血と胃の中身を吐き出す。
「大丈夫ですか?」
駅員が走ってきて声をかけてくる。
大丈夫なわけないだろうが!と心の中で毒づきながらも手で大丈夫だと駅員を制する。
ようやく吐き気が収まり尻餅をつく。
気がつけば鼻血もやや止まってきてはいたが、すでに俺の体は血まみれになっていた。
周りで俺を観察している野次馬達のヒソヒソ話す声が耳障りだ。
羞恥心と嫌悪感がこみ上げて叫びだしたくなる。
荒い息を整えようと深呼吸する。
頭の中でガンガンと音が鳴り響く。
木崎美佳の姿はない。
だが間違いなくアイツの仕業だった。
「…………」
ここまでするか。
「…………」
痛みがどうのというよりも人として辛過ぎる。
今もどこかで俺を見て笑っているのだろう。
「………くそったれ………」
涙が溢れて止まらない。
しばらく泣き続けているとまた駅員が声をかけてきた。
「ああ、大丈夫です。ちょっと…鼻を打ったみたいで。ご迷惑をおかけしました」
救急車を呼ぶか聞かれたので断って立ち上がる。
トイレで顔を洗って手についた血も洗い落とす。
が、服や鞄は血まみれのままだ。
駅の外に出ると目白駅だった。
靄がかかったような思考の中で、一つの結論が形を結んだ。
笠根さんに電話する。
すぐに出た。
「前田さん、どうしました?……大丈夫ですか?」
「ああ、はい、大丈夫……ではないですね」
「………何か起きたんですか?」
「まあ色々と」
笠根さんがため息をつく音が聞こえる。
心配してくれているのだろう。
先ほどのように苛立つことはなかった。
「お願いがあるんです」
無言のままの笠根さんに伝える。
「車を、出してくれませんか」
「え?……ええ、構いませんよ」
思えば昼間に別れたばかりだ。
少し嫌そうだっがどうやら出してくれるようだ。
「それで、どちらに?」
その場所で合っているかどうかもわからなかったが、どうにか導き出した行き先を告げる。
「高尾山に」