今井という男性から聞いた話。
今から10年ちょっと前、彼はとある地方にある一軒家を尋ねていた。
自営業者として働く傍ら、薬物依存症ら者として様々な人の相談に乗っていた彼は、その日も施設関係者からの依頼でとある家族の様子を見に行くことになっていた。
息子に薬物使用の疑いがある家庭の母親に話を聞き、場合によっては警察や病院へと繋げる仲介をするために、彼は東京駅から電車を乗り継ぎ、数時間をかけて知らされた住所へとたどり着いた。
息子の薬物疑惑は地域では有名な話となっており、街中で突然叫んでは走り回るという奇行を繰り返す息子は町の人間からも煙たがられ、その母親もまた肩身の狭い思いをしながらひっそりと暮らしているのだという。
警察には絶対に行かせられないと言う母親を町の人が説得し、今井が関係する施設に相談が持ち込まれ、平日に自由がきく彼に施設から依頼が入って、今回の訪問となったのだった。
事前情報によると息子は40代で70代の母親と二人暮らし。かつては父親と兄もいたそうだが父親は数年前に他界。兄は東京で家庭を持って暮らしているという。
インターホンを押すとすぐに応答があり母親が出てきて今井を招き入れた。
70代とは聞いていたが、40代の息子がいるとのことで想像していた外見よりもかなり老け込んだ母親は小さく背中を丸めていかにも弱々しい。その外見に相応しくヨボヨボとした足取りで彼を居間へと案内した。
案内された居間で四人がけテーブルの椅子に腰掛けたところで、上階から咆哮のような声が聞こえてきた。
「おおおおおおおお!!!!」
甲高い男の声。その声を聞いた瞬間に彼は悟った。これは警察案件だと。
今井の長い経験の中で、あれほどの絶叫をあげるようになった人間はまず間違いなく重度の薬物依存状態になっており、そこまで進行した場合はほぼ例外なく覚醒剤にまで手を出している。
そうなるとまずは警察に相談して病院へかかり、収監になるか在宅になるかの沙汰を受けねばならない。そして聞いていた話によるとその警察への相談をこの母親は頑なに拒んでいるということだった。
話を聞き始めても母親は頑なに「薬物じゃありません」と言うばかりで、息子の現状もはっきり認識している様子はなかった。今井の長くない滞在中にも上階からの奇声やドタバタと部屋を走り回る音は繰り返し聞こえ、それが酷くなると母親は耳を両手で塞いで目を閉じた。
目の前で耳を塞ぎ小さくなる老婆。息子と二人暮らしで周りには隣家もなく、一番近い民家まで畑や空き地を挟んで百メートル以上の開きがある。この心細い一軒家で毎日こんなふうにして息子の錯乱をやり過ごしながら暮らしているのか。そのあまりにも哀れな様子に彼は胸が掻き乱される思いがした。
「お母さん、このままじゃいけないのはわかるでしょ」
今井は言葉を尽くして母親を説得した。息子が吠えるたびに母親は辛そうに眉を寄せ、騒乱が酷くなると耳を塞いで目を閉じる。そんなことを繰り返しながらも、彼は熱心に他人の手を借りる重要性を説き、母親の心細さを心配して励ました。それでも母親は頑なに薬物中毒ではないと繰り返したが、彼の差し出した名刺を固定電話の横にセロテープで止め、困ったことがあればすぐに電話すると約束をした。
今井はそれから熱心にその家へ通うことになった。片道数時間の距離を月に何度も往復し、母親を励まし息子の様子を聞いては警察や、それが嫌なら今井達のような団体や自助グループを頼ってくれと説得をした。
そして時には息子の部屋へと赴き彼とも話をした。息子の部屋は昔ながらの一軒家には似つかわしくない重厚な木製の扉に付け替えられており、息子の錯乱が治らない日でも母親は扉に設られた窓から食事を差し入れているのだという。
まるで監獄の扉のようなその光景は、東京にいる上の息子が取り付けたものだという。部屋の窓には防犯用の鉄格子も取り付けられ、兄は弟を本気で隔離するつもりなのだとわかった。
「お兄ちゃんが扉をつけてくれた。弟もちゃんとわかって自分から部屋の中に入って出てこない。だから弟は大丈夫なんです」
母親はそう言った。彼はこれならさもありなんと思いながらも、それは母親の不安と我慢の上に成り立つことで、やはり警察がダメでも団体の施設や自助グループを頼るべきだと辛抱強く母親に語り続けた。
錯乱していない時の弟は物腰も穏やかで今井の話をよく聞き、母親への申し訳なさと自身の不甲斐なさを痛感しつつも、薬物については使用したことはないときっぱり否定した。医者ではない今井は弟の容体を見て判断することはできないし、錯乱されても一人では対処できないので長い時間を面会に費やすことも躊躇われた。
錯乱する弟の様子を扉ごしに窺っていたことは何度もあった。弟は「あああ」とか「おおお」などの叫び声の他に、「ババア出せ!出せよチクショウ!」とか「違う違う違う!」とか「やめてくれ!」などの単語を叫ぶこともあった。冷静な時とはうって変わった弟の乱暴な言葉に、元来は血気盛んな性格なのだろうと感じた。
錯乱が落ち着いたと確信した直後に部屋に入った時には、弟は部屋の隅で膝を抱えて震えていた。何に怯えていたのかと聞くと弟は自分が何をしていたのかも覚えておらず、ただ漠然とした不安だけが感情として残っているのだと話した。
これまでの事例でもそういうことはあったので、今井は弟の肩を抱き、大丈夫だと繰り返した。
その家から帰る時、今井はいつも胸の奥に苦々しい思いを抱えていた。錯乱して暴れる息子と耳を塞いで耐える母親。そんな老婆の悲痛な姿に自分の母親の姿を重ねて胸が掻き乱される。そして東京にいるという兄に怒りの心が湧き起こっていった。
母親から聞き出した兄の連絡先に電話をかける。今井が自分は何者でどういう経緯で母親と弟に関わることになったかを説明すると、兄は迷惑だとでも言うようにため息を吐いてから「会ってもいい」と言った。
都内の喫茶店であった兄は弟とは10才近く離れた50代で、ずいぶん前に都内にマンションを買って家族と暮らしているという。実家の母や弟とも疎遠にしたいわけではないが、弟が今の状況になってからは気乗りせずあまり頻繁には帰っていないという。
今井が母を気にかけていることに感謝を示しつつも、弟の処遇に関してはのらりくらりと結論を避けていた。
今井が兄の目を見て真剣に考えたらどうか、薬物を脱却するための施設や団体なら自分が間に入れるから頼ってはどうかと切り出すと、兄の雰囲気も変わった。やや居住まいを正し、彼の目を見て切り出した。
「施設にはね、何ヶ所か行って相談はしたんですよ。もちろん病院にもね」
そうして兄は彼の経験を語り出した。
兄によると弟がおかしくなり始めてから医者や自助グループには何度も相談に訪れたという。最初に錯乱した弟をなんとか病院に連れて行こうと救急車を呼んだ。そうしたら救急車ではなくパトカーが現れて5人を越す警官に兄も弟も囲まれてしまった。薬物中毒の通報があった場合には暴れる可能性もあるため複数の警察官で囲むのだそうだ。
119番に電話した際に119番から警察に通報が行ったようで、救急車ではなくパトカーに乗せられて警察署に連れて行かれた。そこで尿検査や事情聴取が行われ、違法薬物の反応がないとわかると警察は淡々と「帰ってください」と彼らを突き放した。
なんとか相談に乗ってくれないかと頼むも「警察では関与できないから病院に行きたければ救急車を呼べ」とアドバイスまでされた。「救急車呼んだらアンタらが来たんだろうが!」と怒鳴りつけて警察署を出たところで弟が急に走り出して自転車に轢かれた。幸い自転車側には怪我も被害もなく、警察署の前ということで相手も及び腰で、「お互い今の事故はなかったことにしよう」と言って自転車はその場から離れた。警察署の前に立っている警察官は近寄ってもこなかったという。
地面に蹲って動かない弟にウンザリしながらも救急車を呼ぶ。警察で薬物検査をして問題なかったことを告げると今度こそ救急車がやってきた。
ところが救急車は一向に発信しない。脱法ドラッグと思しき弟を迎え入れてくれる病院がないとのことだった。かなりの時間をかけて救急車はその場で病院を探し続け、ようやくたどり着いた病院でも血液検査などの結果から違法薬物ではないので家族で面倒を見るよう言われ放り出されてしまった。
営業時間外の病院のタクシー乗り場で項垂れる弟を前に呆然とする兄。
「お前、何やったんだ」
その時になってようやくその言葉が出た。
「親父が首吊った木があったろ」
タクシーの中で弟は弱々しくそう言った。一家の父親は数年前に庭の木で首を吊って亡くなっていた。自殺の理由は不明で、遺書には詫びの言葉だけが書いてあったという。葬儀や手続きなどが全て終わった時に、たまらなくなって業者を呼んでその木は切り倒していた。
「枯れないんだよ」
弟によるとその木を切り倒す際に、端切れのような枝を拾って隠し持っていたという。父の死に場所となったその木を母と兄は切り倒すと決めた。弟はそれを寂しく思いこっそり枝を自室に持ち帰り水を入れた花瓶に刺した。通常ならひと月ほどで枯れるはずのその枝は、父親の死から数年経った現在も弟の自室で葉をつけているという。
兄は信じられなかったが、実家に戻り弟の部屋に行くと確かに枝が花瓶に刺した状態で窓際に置いてあったので、兄はすぐさまそれを処分した。兄はこの時まだ脱法ドラッグだと信じ込んでいたため、枝に関しては全く重視していなかった。どこで脱法ドラッグをやったのかと問い詰めては、弟の「やってない」という言葉に苛立っていた。
弟は正常な時は全く問題ないが、錯乱すると尋常じゃない動きで裸足のまま家を飛び出していく。そして時間が経つとフラッと戻ってくる。錯乱している時の記憶は不明瞭で自分が何に怯えているかもわからないという。
実家に滞在していた兄が東京に戻らなくてはならない期日が近づいても弟が入れる施設は見つからなかった。当時は脱法ドラッグが合法ドラッグと呼ばれ、雑誌やウェブサイトでも堂々と売っている時代だった。次々にデタラメな調合で売りに出される脱法ドラッグの数々に警察も病院も明確な診断を下せない状態で、弟の症状から当該の薬物を割り出して適切な治療をするなど不可能だった。
薬物関連の自助グループや隔離施設も情報が少なく、商売でやっている施設が見つかったとしても法外に感じるほどの高額で、兄は結局打つ手がないまま東京へ戻らざるを得なくなった。
それでも年老いた母に錯乱する弟を任せるのは無理な話で、兄は週末のたびに実家へ戻っては知己の業者に頼んで弟の部屋を厳重なドアに付け替えた。兄と弟は話し合い、弟は自ら出ることはできない隔離部屋へ籠ることを約束した。
弟が正常な時を見計らって母親が扉の鍵を開け、弟は風呂に入るために階下へ降りる。それもやがて週に一度ほどのペースになり、涼しい季節には一ヶ月ほど部屋から出ない日もあったという。風呂に入る以外の時は自分の判断で部屋に篭り、母親に外から鍵をかけるよう念押しをした。錯乱した自分が部屋から出せと言っても決して扉を開けるなと母親に言い聞かせていた。簡易トイレを持ち込んで用を足した排泄物を窓から放り出すので、弟の部屋の外にある農具は弟の排泄物で酷いことになっていたという。
「…………」
兄の話を聞いて今井は言葉が出なかった。座敷牢のようだと感じたあの扉は本当に座敷牢だったのだ。異様なのは弟が自分の意思で部屋に篭り、錯乱に備えて鍵をかけるよう母親に何度も言って聞かせていたことだ。弟には自分が錯乱してそこら中を叫びながら走り回る自覚があったということだ。
一体弟は何に怯え錯乱しているのか。薬物による幻覚にしてもオンとオフの落差が激しすぎないか。兄の説明にあった「父親が首を吊った木」の枝。処分されたはずのその枝と同じものかは不明だが、今井が弟の隔離部屋に立ち入った際に花瓶に生けられた木の枝は何度も目にしていた。
部屋の外に出ると言っても風呂場に直行してカラスの行水よりも早く出て隔離部屋へ戻る弟。そんな彼が新しい枝を探しに庭や裏の林に行くのは考えにくかった。
「…………」
そうなると母親が枝を拾ってきて弟の隔離部屋に持ち込んでいるということだろうか。一体なぜそんなことをするのか。
「だから、お袋もおかしいんですよ」
兄と東京で再び話し合った際にそう言われた。今井の疑問に兄はまた迷惑そうにため息を吐いて続けた。
父親が首を吊った木はとっくに切り倒しているのに、弟の部屋にあった枝は兄が目の前で捨てたのに、母親は弟が風呂に入っている時に裏の林から拾ってきた枝を弟の部屋に持ち込んでいるという。家から一歩も出ない弟の部屋に今も花瓶に生けられた枝があるのが何よりの証拠だった。
「何考えてそんなことしてんだって何度も聞きましたよ。お袋はあんな感じですからまともに答えちゃくれませんが」
言葉少なに「薬物じゃありません」と言って寡黙に耐える老婆。そう見えていた母親の姿が異様なもののように感じられてくる。そもそも枝を生けることに何の意味があるというのか。
そこまで考えて彼は家の裏を見に行った時のことを思い出していた。弟が窓から排泄物を投げ捨てているという現場を見に行った時のことだ。汚物まみれになっていた農機具を片付けてやれないかと思い裏側の庭を確認しに行き、あまりの酷さに諦めて撤退することにした。
視線を上げると家の裏手に広がる小さな林と家の境界のような位置にひと際大きな木が立ったいるのをみて、立派なものだと思った。振り返り母親の元に戻りながら、亡くなった父親のことが頭によぎり、「自分が吊るとしたらあの木だな」となんとなく思った。
その時になって、今まで見ていた巨木に色がついていなかったことに気がついた。大きさこそ立派なものだが、その枝にも葉にも色がない、くすんだ白黒の木だったと気づいたのだ。わけがわからず振り返ると、そこには大きな木などなかったという。
「お父さんが首を吊った木というのは、裏手の一際大きな木ではなかったですか?」
そう聞くと兄は「見ましたか」と言って何度目かのため息を吐いた。そして「俺が見た時はブラブラ揺れる親父も見えましたよ」と言った。
「…………」
その言葉に今井は今度こそ何も言えなくなったという。
母親は弟をどうしたいのか、自殺した父親にはどんな動機があったのか。息子の狂乱を耳を塞いでやり過ごしていたあの様子も実は、単にうるさいと思ってそうしていただけなのだとしたら。
嫌な想像が湧き上がってくるのを感じる。父親が首を吊ったことが全ての始まりだったのか。今は切り倒されたその木の魔力によるものなのか。はたまた別の要因があってその木が選ばれただけなのか。あるいはこの胸騒ぎが示すように、母親がなんらかの手段で父親や弟をどうにかしているのだとしたら。
「親父はね、自殺するような細やかな性格じゃなかったですよ。それは間違いない」
兄が続ける。
「お袋も弟もおかしくなっちゃって、あんなの見ちゃったら帰ろうとは思えなくてね」
兄が今井の顔を正面から見た。
「今井さんがお袋を心配してくれてるのはありがたいんだけど、ぶっちゃけ手を引いてもらってもいいと私は思いますがね」
今井は何も答えなかった。この時にはもうあの家からは手を引こうと半ば決めていたという。
「どう考えても薬物じゃないでしょ。私だって今井さんだって見ちゃってんだから」
兄の言葉に頷くしかなかった。
結局それから何度か一家の元に通ったが、自然と足は遠のいて毎週のように通うことは無くなった。
今でも弟は錯乱して泣き叫んでいるのだろうと今井は言う。母親か弟が死んだら一応の連絡はするし、もしも自分が死んだら嫁から連絡させると兄は今井に約束をして、今のところ連絡はないという。