これ多分婆ちゃんなんだよ

 神谷さんという男性から聞いた話。
 今から10年ほど昔、彼は父親とその友人のシゲルさんと一緒に地元の山に登山に行くことになった。
 シゲルさんは登山そのものというよりも山登り用のガジェットを自慢するのが好きな人だった。登山前日も当日移動中の車内でもひたすら登山靴やカーボン製の軽量な山グッズの自慢を聞かされ、彼はややウンザリしながらもこれから登る山に思いを馳せていた。
 今回登るのは『傾山(かたむきやま)』。歩きやすく集団での移動に適したルートが多く、登頂中や登頂後に見られる県内でも指折りの絶景が人気の山だった。早朝5時から山に入り往復7時間弱をかけて、木の生い茂った自然の中を行くコースを計画していたという。

 人気の登山スポットであると同時に、県内でも『出る』ことで有名な傾山。下山中に迷うことが多いらしく、登山客の遺体がよく発見される山でもあるという。「なんでこんな所で遭難したんだ?」と疑問に思うような発見のされ方で、登山コースから見える場所に遺体が転がっていることがよくあった。
 漫画日本昔ばなしに出てくる『吉作落とし』でも有名な山で、些細な気の緩みが命を失うことにつながるとして、「簡単な道でも決して気を抜かないように」と地元の学校で教えられるという。大人達はもっと怪談的に『呼ばれる』という体験談をまことしやかに話している。登山中に「道の脇のほうから名前を呼ばれる」。遭難していなくてもこのような体験をする人がそれなりにいて、地元の大人達はお盆の時期には傾山には登らないようにしているという。
 地域の人間は子供の頃からそうした『呼ばれる』体験をしている場合が多く、遭難しかけた時に「知り合いに名前を呼ばれた」気がして、なぜか疑問も持たずに登山道から外れて山の中へと入ってしまう。ふと我に帰り来た道を戻ろうとしても、同じような景色の中をグルグルと回ってしまいそのまま夜を迎えたというパターンが多いという。

 地元である神谷さん達は傾山のことも熟知しており念入りに計画を立て準備をした。想定していた少しキツめのルートで頂上を目指し、和気藹々と草木をかき分け想定通りの時間で登頂することができた。絶景を前に弁当を食べ、少し休憩してから下山することにした。
 下山のルートも初心者用ではなくそれなりに厳しいルートを選んだ。道のすぐ脇には木が生い茂っているがその先は急な傾斜になっており、文字通り油断すると命取りになりかねないルートだった。
 一時間ほど下った時、不意にシゲルさんが「ああー!」と何かを見つけたような声を上げ、そのままルートを外れて木々の生い茂る傾斜へと入って行った。神谷さん達も慌てて後を追おうとしたが、たまたま近くにいた別の登山者から「行くな!」と注意されてしまった。二次遭難を防ぐためにもここは救助を呼ぶよう説得されたという。
 傾山は携帯の電波が通じるためその場から麓の管理事務所に電話をかける。「仲間が突然声を上げながら脇道に入って行った」と伝えると「ああ、声を上げてね、ああ、そうですか。それは大変だ」と妙に親身に受け答えをしてくれる。そして「今すぐ人を送りますんで、絶対中には入らんでくださいね」と話す後ろで「まぁただってよ」「多いなー最近ほんと」という職員達の声が聞こえた。

 しばらくその場で待機していると、重装備の救助隊が数名駆けつけてきた。神谷さん達の説明を受け、彼らにはこのままこの場に留まるよういい含めてから体にロープを巻きつけ、シゲルさんが消えた木々の中へと進んでいく。口々にシゲルさんの名前を呼びながらどんどん奥に入っていき、20分ほどして遠くの方で「発見ー!」という大声がした。
 救助隊に両脇を抱えられるようにして戻ってきたシゲルさんは、なぜか手にピンク色のビニール紐のロール巻を握っており、それは彼らが戻ってきた急斜面の奥へと伸びていた。
 戻ってきたシゲルさんは消耗するどころか少し興奮した様子で、神谷さん達が救助隊に礼を言うのを聞いて「そんなことよりも」と言った。
 「この紐は残しておいてください。さっきの約束守ってくださいよ」
 シゲルさんのあまりに無礼な物言いに神谷さん達は鼻白んだが、救助隊の面々は「はいはい。わかったから」と受け流している。そのまま管理事務所まで降りて一度保護という扱いになり、通報を受けてやってきた警察官からも事情を聴取された後に帰って良しとなった。
 シゲルさんが事情聴取を受けている間、神谷さんは救助隊のおじさん達から現場の様子を聞いていた。本来は守秘義務などあるのだろうが、地元の親近感からか意気揚々と語ってくれたという。

 傾山の中では中くらいの太さの木々が生い茂る斜面をしばらく進むと、一本の木にしがみついているシゲルさんを発見したという。滑落して必死に木にしがみついたのだろう判断して、声をかけながらシゲルさんの安全を確保するも、「今帰るともうここに来れなくなる」と言って木から離れようとしない。
 「ここは危ないし入ってきちゃいけない場所だから、ほら帰るよ」と説得してもシゲルさんは頑として木に取りすがって動かない。救助隊の面々がいい加減頭にきたところでシゲルさんも怯んだのか、「せめてこの場所がわかるようにしてくれ」と言い頭を下げた。
 片付けのために再度ここまで来なくてはならないのは非常に面倒だが、それでこの男が落ち着いて移動してくれるならと山中で目立つピンク色のビニール紐をその木に結びつけて、紐を伸ばしながら神谷さん達の元へ戻ってきたという。
 戻る最中も「よかったぁ。よかったぁ」と繰り返すシゲルさんに「本当によかったよ。もうこんなことしないで下さいよ。簡単な道だけど命に関わるんだから」と言うと、「そうじゃなくて、あの場所がわかってよかったんですよ」とニコニコしている。
 「なんがあるとね?」
 救助隊がややイラつきながら聞くとその言葉に被せるようにシゲルさんはしみじみと言った。
 「あれはねえ、多分婆ちゃんなんだよ」
 そうしてビニール紐を右手に持ち、左手でポケットからデジカメを取り出した。そのまま両手で操作して画像を表示させ、隣を歩く救助隊員にそれを見せた。一本の木が真ん中に写し出され、根元にはピンク色のビニールテープが巻いてある。先ほどシゲルさんがしがみついて木だ。
 「これ多分婆ちゃんなんだよ」
 そうシゲルさんは繰り返す。救助隊は彼が興奮と混乱の状態にあるのだと思い、聞き流しつつ登山道まで戻ってきた。

 そうして無事に山から自宅へと戻ることができ、数日後にシゲルさんから謝罪を兼ねて自宅に招かれた。登山当日は「あれは婆ちゃんだ」としか話さなかったシゲルさんもこの日は落ち着いており、謝罪の酒を振る舞いつつあの日にあった出来事を話してくれた。
 「山を降り始めてからさ、シゲル〜って呼ばれたんよ」
 やけに聞き覚えのある声で、気になりはするものの神谷さん達は全く気にする様子はない。これはおかしい、『呼ばれる』ってのはこのことか。恐怖心が湧き起こってきたが、ひたすら無視して下山に集中していた。
 しかし降るにつれて彼を呼ぶ声は大きくなっていく。そうしてついに彼はふと「あ、婆ちゃん!」と気がついた。シゲルさんの祖母は彼が子供の頃に、このあたりの山に出かけたきり戻っていないという。
 この声は間違いなく婆ちゃんの声だ。そう気がついてからは夢中で声のする方に近づいて行った。後ろで神谷さん達が呼ばわる声が聞こえていたが、その時の彼は祖母への思慕が勝ってひたすら声の元へと急いだ。
 やがて急斜面の中に立つ一本の木に目が止まった。その木の目の前まで行くと「ああー、婆ちゃんだ」という確信が湧いてきて思わず抱きついた。
 「婆ちゃん、婆ちゃん」
 嬉しくて悲しくて目から涙がポロポロ溢れたという。
 やがて救助隊が到着して彼を説得している時、実は結構冷静に状況を見ていたという。「ここから離れたくない」という主張の裏には『この木の周辺を掘って調べてくれ。婆ちゃんが出てくるはずだから』という確信があった。今にして思うとその確信もおかしいものだとわかる。
 「気が狂う、ってのはああいうことを言うんだなあ」
 自宅の居間で神谷さん達に酒を注ぎながらシゲルさんはしみじみと言った。

 その後ひと月ほどして捜索は実際に行われたという。『遭難者の遺体がある可能性がある』との処理で、あの時救助隊として現場に行った管理事務所の職員達が現場周辺を捜索して掘ってみたが、人骨はおろか衣服などの遺留品もまるで見つからなかった。
 「じゃあシゲルは誰に呼ばれたってんだ」
 神谷さん達はそう疑問を交わし、「シゲルは本当にもう大丈夫なのか?」という疑問に行き当たって空恐ろしくなった。結局その後は神谷さん達もシゲルさんも傾山に行くことはなかったが、あれから数年経ったある日、シゲルさんは忽然と姿を消し、今に至るまで見つかっていないという。

 余談だが傾山周辺では40代以上の男性がソロ登山で遭難することが多いという。多くが祖母を看取った経験のある年代の男性で、傾山は祖母傾山系と言われる山々の中の一つである。
 祖母傾山系の最高峰となるのが山頂に神武天皇の祖母である豊玉姫を祀った祖母山(そぼさん)であることから、傾山で『呼ばれる』という話をする際には「婆様を大事にしねえで死なせちまった男が連れていかれるんだよ」という笑えない笑い話が語られているという。

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