それお父さんなんよ

ひと組のご夫婦の話を書く。
神谷という介護職を生業にしている男性から聞いた話である。
この話を聞いて読者はどう感じるだろうか。
この話に出てくるご夫婦の人生とその終わり方から我々は何を学べるだろうか。

旦那さんが亡くなったのは夏の本番を控えた季節。
場所は首都圏から日帰りできる距離にあるとある山の中だった。

神谷さんはそのご夫婦とは付き合いが長く、まだご夫婦共に介護の必要もなく元気に山登りをしていた頃に知り合っていた。
介護職のかたわら整復師としても活躍していた彼は、診察に訪れた旦那さんの足のリハビリを担当したことがきっかけで、その後の長年の付き合いをするようになり、果てはご夫婦の最期の3年間を共にすることになった。

元気であった頃のご夫婦は共に山登りをすることが趣味で、二人で早朝に出掛けて行っては日帰り登山をしたり、地方の山に登るために泊まりがけで旅行に行くこともあった。
山で足を怪我した旦那さんが彼の接骨院を訪れるようになってからは、リハビリの間ずっと彼に登山の話を語って聞かせ、山がいかに素晴らしいか、自分に付き合って登山を始めてくれた妻がいかに良くできた妻であるかを自慢していた。

「海はもう飽きたからよお」
元漁師の旦那さんにとって山は未知と初体験の宝庫であり、誰が建てたかわからない小さな祠を見つけては手を合わせて、子供や孫達の幸せを祈っていたという。
荒っぽい海の男が山の自然と信仰心に目覚めたかと思えば、
「祠の中には何が入ってんだろな」
とバチ当たりなことを考えることもあった。

診察に付き添っている奥さんからも登山の話やお子さんお孫さんの話を聞かせてもらい、彼とご夫婦は短期間ながらも長年来の友人であるかのような関係を築いていた。

そんな彼にご夫婦から往診の依頼が来た。
日帰り登山で奥様が足を怪我したのだという。
かなりの大怪我で直ちに入院となり、自宅での療養に切り替えてからは彼のサポートのもとでリハビリをすることになった。
怪我をしていても元気で快活なご夫婦は彼の訪問を歓迎し、往診に伺うたびにお茶やお菓子で彼をもてなしてくれた。

「お父さんね、やっぱりちょっと寂しそうなのよ」
リハビリで足を動かしながら、奥さんは小声で彼にそう告げた。
自分が足を怪我したせいで旦那さんも山に行かなくなってしまい、それどころか家事の全てをやってくれている。
とても感謝しているが罪悪感のようなものも感じてしまい、モヤモヤしているということだった。
やがて奥さんは旦那さんを山に送り出すようになった。

「申し訳ないけど山にはひとりで行ってきて」
と言うと旦那さんは最初こそ渋っていたものの、次第に落ち着かないようにソワソワするようになり、一度ひとりで山に行ってからは以前の元気を取り戻したように明るくなった。
奥さんにも山のお土産を持って帰るようになり、山で見聞きしたとこを面白おかしく語って聞かせた。

ある日奥さんから彼の元に電話があり、
「申し訳ないけれどしばらく娘のところでお世話になるから、しばらく訪問は控えてほしい」
とのことだった。
しばらくして往診再開の依頼を受けた彼は久しぶりにご夫婦の自宅を訪ねた。
門前に立ち呼び鈴を鳴らす。
反応がない。
しばらくしてカチリと鍵を開ける音がして、開いた扉から奥さんが顔を出した。
どうもと挨拶をして、足を引きずる奥さんの後に続いて自宅に上がらせてもらう。
リビングに置いてある仏壇に違和感を感じて目を向けると、普段は無いはずの果物や手紙などのお供物が供えてあった。
そして旦那さんの写真が小さな写真立てに飾られていた。

「…………」
そういうことかと納得してお悔やみを述べ、奥さんの案内に従ってテーブルにつく。
いつものようにお茶とお菓子が出されるが、弱々しい奥さんの様子に胸が痛む。
介護の仕事をしていると、伴侶との別れに消沈する患者さんに遭遇するのは珍しくない。
このご夫婦のように元気だった方が一転して、ということもままある。
それでも彼は真心から旦那さんの死を悼み、リハビリをしながら奥さんの話を聞いていた。

往診を再開してしばらくは弱々しく旦那さんとの思い出や亡くなった際の状況を語っていた奥さんだったが、ひと月もする頃には旦那さんの話しは全くせず、足が痛い、これじゃ山なんか歩けないね、とこぼすようになった。
彼は奥さんのネガティブな言葉に対して、迂闊に同意せず励ましながらリハビリをサポートし続けた。

思い出と共に奥さんが語った旦那さんの最期の様子に彼は奥さんの消沈ぶりも仕方ないと思っていた。
旦那さんはいつものようにひとりで山に向かい、予定の日程が過ぎても帰って来なかった。
往診が中止になっていた時期は、奥さんが家族に相談して警察に捜索を要請するなどしていたために、家族が集まって生活していたとのことだった。
そうして発見された旦那さんは山中で転落した状態で亡くなっていた。
損傷が激しくそのまま司法解剖に回された。
転落した際の怪我が原因で亡くなり、そのままかなりの時間が経ったために損傷が酷くなったということだった。
検死に回される段階で衣類などは戻ってくることはないそうだが、転落時に体とリュックの間に挟まるように引っかけていた上着は着用しているわけではなかったので、紆余曲折の末に奥さんの元に戻ってきた。
そしてリュックとその中身も遺品として警察から戻されたという。

その日も彼はいつものようにリビングで奥様の足の曲げ伸ばしをサポートしていた。
彼同様にいつも来ているヘルパーの女性が寝室の襖を開けると微かに嫌な匂いが寝室から漂ってきた。そのまま部屋に入って片付けや洗濯物の回収を始めるヘルパーさんは慣れたものなのか気にする様子はない。
そのままリハビリを続けていたら、突然奥さんが大声を上げた。

「だめ!それは洗っちゃだめ!」

ここ最近の消沈ぶりからはとても信じられない、これまでに見たこともないほどの剣幕で叫ぶ奥さんの様子にたじろぐヘルパー。
なおも怒声のような調子で「洗うな」と繰り返す奥さんを宥めるように声掛けをする。
「よかれと思ってやったことですよ」
彼の言葉に安心したのかヘルパーが近寄ってきた。
「そうそう。綺麗にしようと思ったんですよ」
と笑顔を作るヘルパーに今度は懇願するように奥さんが両手を伸ばした。

「それお父さんなんよ。それ、お父さんなんよ」

ヘルパーが手に取っていたのは寝室のハンガーラックに掛けてあった旦那さんの上着だった。
あちこち汚れていて匂いも酷い、旦那さんが亡くなった時にリュックに引っ掛けていたために戻ってきた遺品。
今まで寝室に入ることがなかった神谷は初めてその上着を見た。
土汚れの他にも点々と赤黒い血の跡や体液と思しき黒ずみがそのまま残っている。
それら『旦那さんだったもの』が匂いの元であるらしく、手にしたヘルパーもその異様さと匂いに顔を歪ませている。
他の衣類の中から引き出されたことでその上着から漂う腐臭は家中に漂い始めた。
ヘルパーから上着をひったくり、胸の前で掻き抱いて奥さんはブツブツと何事かを呟き始めた。神谷やヘルパーの言葉にも反応しなくなってしまったので、その日のリハビリは終了して彼は家を出たという。

それからは往診に行くのが憂鬱になっていった。
洗濯されそうになってからというもの、奥さんはその上着をいつでも目に入れておけるよう、仏壇の横に掛けていた。
往診に伺った際に真っ先に窓を開けて換気しても、ヘルパーが消臭剤をいくつも設置しても効果がなく、部屋の中はいつでも旦那さんの腐臭で満ちていた。
奥さんがいくら旦那さんを思っていたとしても、人間は物理的に匂いを感じてしまう。
それが原因かのように奥さんは次第に食事をしなくなっていったという。

そして神谷は気にしないようにしていたが、どうしても目を背けていられない事態が起きていく。
仏壇の横に掛けられている旦那さんの上着。
点々と染みついていた赤黒いもの、黒ずんだ何か、それらが日を追うごとにジワリと滲んで広がり、やがてその染み周辺が湿り気も帯び始めた。
奥さんやヘルパーが何かしているのかとも思ったが、ヘルパーに問い合わせても何も知らないという。
逆にヘルパーは彼が何かしているのではと思っていたようで、2人の観察においても奥さんが何かをしている素振りはなかった。
匂いは日に日に酷くなっていく。
あまりに異様な状況を気味悪がってヘルパーは配置換えを申し出たが、人員の関係上すぐには交代できないと嘆いていた。
そんな状況が続いてある時、リハビリを手伝っている神谷の耳がピチャリという音を聞いた。
初めは気にならなかったが、ピチャリピチャリと断続的に続く音が気にさわって目を向けると、旦那さんの上着から赤黒い雫が垂れていたという。

奥さんは目の前でリハビリを受けていて、この時間にヘルパーはおらず彼しか動ける人間はいない。
ピチャリ…ピチャリ…
当初は点々とついていた染みはすっかり広がり、手のひらほどの大きさの赤や黒のまだら模様となっていた。
それらは今や湿り気を帯び、腐臭を撒き散らしながらピチャリピチャリと床に滴っている。
吐き気をこらえて上着から目を背ける。
幸いにもその日の往診終了の時刻が迫っていたために早めに切り上げ、飛び出すように家を出たという。

次の診療に行くのが心底嫌になっていた彼の元に数日後、奥さんの娘から連絡が入った。
母が亡くなったので往診はもう結構ということだった。
49日が終わった頃に再び娘から連絡が来て、未払いの料金などの確認も踏まえて一度会うことになった。
長年の往診の感謝と共に娘は母親の最後の様子を彼に語って聞かせた。
娘の仕事が休みだったためにヘルパーを頼まず自身で世話をするために母親の元へ向かった。
鍵を開けて中へ入ると、布団の上で母親が死んでいた。
父親の遺品である上着を羽織って、猛烈な腐臭に包まれていたという。

彼は自分が見た異様な体験を娘に話すことはなかった。
異様な死に様に関しても「きっとお父さんのことが最後まで大好きだったんだと思います」と語る娘に黙って頷いた。
結局のところあの終わり方がなんだったのか神谷にもわからない。
旦那さんが奥さんを連れていったようにも見えるし、奥さんが最後まで旦那さんと添い遂げたようにも見える。
ただ腐臭漂う家の中で、だんだんと食事をすることをやめていった奥さんの最後の日々に、心安らかであったとはとても言えないと彼は語った。

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