「言えないわよそんなこと。それを知ったらトモちゃんあのババアを許さないでしょう」
染物屋の奥様が集まった茶飲み友達に話しているのを彼は聞いていた。
場所は彼の祖母の家。
お婆ちゃん子だった彼は小学校が終わるとよく祖母の家で祖母の話し相手をして過ごしていた。
祖父を亡くした祖母を気づかって近所の婦人達も毎日のように集まり、祖母の家は地域の社交場のようになっていたという。
集まる婦人達は祖母と同年代か少し下の世代、すでに子育てを終え家計の主導権も息子世代に譲った暇な婦人達は、さながら地域のご意見番を気取ってあちらの家庭やこちらの夫婦問題を肴にお茶を嗜むのが常だった。
彼の母や叔母達は祖母世代の圧力を嫌って近寄らないものの、彼は祖母にも婦人達にも可愛がられ毎日のように祖母の家へと通っていた。
そこで語られることは小学生の彼には理解できないことが多く、それゆえに祖母達の舌も滑らかでどこそこの家庭での事情を隠すことなく語っていた。
その日の話題は地域でも頑張り屋で有名な知子さんについてだった。
知子さんとは地域でも有名なスポーツ特待生になる息子を持つ母親で、数年前に旦那さんを事故で亡くした可哀想な人だった。
病気で寝たきりとなった義母を懸命に介護しながら、朝から夕方までアルバイトして夜は料亭での本職をこなしてなんとか3人分の生活費を工面していたという。
哀れに思ったご近所がわずかな支援をしたりして面倒を見ていなければ、とっくの昔に体を壊していたことだろう知子さんは、生活保護を勧める声にも耳を貸さず懸命に働き続けた。
当時はまだ「生活保護は恥だ」という考え方をする人間も多く、知子さんも頑なに自分の稼ぎで義母と息子を養うことを譲らなかった。
息子を溺愛するあまり知子さんとの結婚を反対していた義母だったが、息子が急死してからも懸命に尽くす知子さんの様子に次第に絆されていったようで、さらには病気を得てほぼ寝たきりの生活を余儀なくされてからは知子さんに感謝をするまでになっていた。
昼間アルバイトをしながら仕事の合間に義母の様子を見に行き、アルバイトから料亭へと切り替える隙間に夕食を作って家事もする。
そんな知子さんのことをご近所総出で見守り、息子も母の努力に報いるために学校での学びを極めていった。
爪に火を灯すような生活を送る知子さんに、染物屋の奥様が話を持ちかけた。
「あんたが義母から譲り受けた着物は高価なものが多いから、洗い張りして反物に戻して売れば生活はかなり楽になるだろうよ」
洗い張りとは着物をバラして反物に戻してから洗濯などをして反物を甦らせる作業で、新たに仕立てずそのまま売ってしまえという提案だった。
結婚後に義母から譲られた着物に知子さんは袖を通すことはせず、「いつか息子の嫁に譲る」と言って箪笥の奥に仕舞っていた。
ギリギリの状態で生活費を工面していたものの、突発的に発生する資金繰りに心を悩ませていた知子さんは、染物屋の奥様の言葉を聞き入れて何着かの着物を奥様に預けた。
結果、奥様の言うとおりかなりの高値で売れたようで一時的にせよ生活はかなり楽になったという。
これがきっかけで家計が助かったと同時に、知子さんの運気も上昇していく。
働いていた料亭の女将が引退することで人事が変更になり知子さんも出世して給与が上がった。
持病のようについて回っていた倦怠感と痛みが和らぎ顔色も良くなっていった。
染物屋の奥様が再度囁く。
「あんたがもらった着物なんて古臭くてとてもじゃないが息子の嫁には譲れないよ。うちで洗い張りして売ってあげるから全部出しちゃいなさい」
地域でも商売上手として名の通った奥様の言うことなのでご近所からは「守銭奴に騙されちゃならん」と止められたものの、結局数年のうちに知子さんは着物をほとんど売り払ってしまった。
ろくに口も効けなくなった義母への遠慮もこの頃には無くなっていたのだろう。
着物を手放すにつれて知子さんの運気はどんどん上がっていった。
息子が運動で結果を出して特待生として高校に通えるようになった。
息子としても懸命に働く母のために必死で頑張っていた。
高校の学費問題が一気に解消したことで知子さんは目に見えて明るくなり、それまで以上に献身的に義母の世話をするようになった。
「あの鬼ババア。着物の襟に呪いの札を仕込んでいたのよ」
彼が祖母の家で聞き耳を立てる側で、染物屋の奥様が茶飲み仲間である祖母達にこぼしていた。
「びっくりしたわよ。洗い張りしてたら気持ちの悪い護符みたいなのが襟の下から出てくるんだもの」
彼に聞こえないようにだろうか、声を顰めて続ける。
「それ全部にトモちゃんの名前が書いてあるのよ。あの鬼ババアはトモちゃんのこと殺そうとしてたのね」
婦人達のどよめきが広がる中で彼は必死に頭を働かせて奥様の言葉を理解しようと努めた。
「言えないわよそんなこと。それを知ったらトモちゃんあのババアを許さないでしょう」
恐ろしい、とは思わなかった。
「ま、残ってる着物全部処分したらトモちゃんだって楽になるでしょ」
彼は奥様が語る禍々しい言葉にワクワクしていた。
「お寺さんに調べてもらったら、長く苦しめるためのお札みたいなことを言ってたわ。皮肉なものよね」
奥様はここで楽しそうな口調になったという。
「息子さんを死なせちゃって自分は寝たきりになっちゃって、トモちゃんを苦しめるために自分達がそんな目にあってちゃ世話ないわ」
そう言って笑った。
ある時、知子さんは残っていた着物の全てを染物屋に持ち込んだ。
晴れやかな顔だったという。
息子が入学した高校の縁で後妻を探している資産家と出会い再婚もした。
寝たきりの義母を1人残して資産家の元へと息子ともども引っ越していったという。
現代でいうところのヘルパーを雇って義母の世話をさせていたが、1人では起き上がることもできない義母にも関わらずヘルパーが来るのは一日に数時間だけ。
たまに綺麗な身なりをした知子さんがやってきて30分ほど滞在し、鬼の形相で家から出てくるのをご近所が見ていた。
知ってしまったのだ、と彼は思った。
祖母の家にいた誰かが知子さんに知らせたのだろう。
あるいは全員がそうしたかもしれない。
言えないわよなんて言っていた奥様自身がそうしたのかもしれない。
いずれにせよ知子さんはもう全てを知っている。
そうして義母は生かされながら、命が尽きるまで知子さんの復讐に苦しむのだろう。
「それにしても」
ある時また奥様が言った。
「トモちゃんの守りは相当強いんだと思うわ。あの子の坊ちゃんも守られてる」
彼はスポーツ特待生として地域の星になった知子さんの息子のことを思い起こした。
まさに万能の優等生である先輩は、高校でとあるスポーツの花形選手として活躍し、その後プロになっている。
知子さんの義母はその後何年も1人で生きて、やがて哀れなヘルパーが遺体を見つけたという。