第七作 呪の曙(しゅのあけぼの)

第四部 二話 狂信者達

横浜YMビル前で近藤さん、連雀さん、平野さんと合流して正面入り口から堂々と侵入する。

篠宮さんがカードキーをかざすとピッと小気味よい音がして両開きの自動ドアが開いた。
いつもより格段に多い人数では除霊もとっ散らかると思い、俺は不気味な気配を篠宮さん達に任せて倒れている人達のケアに回ることにした。

後で見たら黒い甲冑姿の霊が刀を振り回していたのでびっくりしたが、アレの相手をするよりは被害者を介抱する方が俺らしい立ち回りだと考え見てみぬふりをした。
みんないるから大丈夫だろう。
と思ったら伊賀野さんが先頭に立って読経を始めた。
これは参加しないと怒られると思い慌てて駆け寄り読経に参加するが、当の伊賀野さんから「こっちはいいからあっちいけ」とジェスチャーをされたので、ありがたく倒れている人達のケアに戻った。

白熱する除霊を尻目に倒れている人の状態をチェックしていく。
どの人も気を失っているが呼吸はしっかりあるようで安心していたが、何人目かの肩を叩いた時、その顔色が生きている人間のものではないと気がついた。
命を失い冷たくなった首元に手を当てて脈を確認するが何も感じられるものはない。
念のため心臓マッサージを試すものの、何度体重をかけて心臓を圧迫しても効果はなかった。

「…………」

死んでいる。
覚悟はしていたものの『死』という現実を目の当たりにして気分が落ち込んでいく。
他の人は助かっているのにこの人はなぜ亡くなってしまったのか。
霊感が強く霊からの攻撃に敏感に反応してしまったのか、たまたま体調が悪いところに大きなダメージを受けて生きるエネルギーまで失ってしまったのか、はたまたあの武者の霊との相性が良かっただけなのか。
理由はわからないし想像したところで答えなんか出るはずもないが、どうしてという思いが頭の中を占めている。
俺自身の無念を自覚したところで、理不尽な死を迎えてしまったこの人の無念に思いが至る。
静かに手を合わせて冥福を祈り、仇は打つと約束をしてその場を離れた。

ロビー内に倒れていた7人のうち2人は残念ながら亡くなっていた。
伊賀野さん達の除霊が終わったらみんなの同意を得た上で警察と救急車を呼ぼうと思うが、すでに冷たくなっているあの2人が蘇生することはないだろう。
そう思い除霊を見守るつもりで立ち上がる。
ふと視界の隅で何かが動いたのがわかって顔を向ける。
倒れて気を失っていた男性が四つん這いの姿勢でロビーの隅に移動しているのが見えた。
白衣を着ておりミルキーウェイのカードキーを首から下げていた男だ。
たった今目を覚ましたのか、俺が彼の容体を確かめていた時に狸寝入りをしていたのか、とにかくあのミルキーウェイの職員らしき男は除霊のどさくさに紛れてこの場から離脱するつもりのようだ。
目を覚ましたなら話を聞かない手はないと男に近寄り小さく声をかける。

「あのぅ、おたくさんは……」

俺の声に振り向いた男は、いきなり立ち上がりロビー隅に駆けていく。

「あ、こら」

俺も慌てて後を追う。
もしかしたら彼があの武者の霊をこの場で解き放った張本人かもしれない。
この惨状を引き起こしたかもしれない男を逃してはならない。
除霊中のみんなに声をかけるのは躊躇われて、そのまま彼が開けたドアを俺も開けて追いかける。
ドアの先は上下に続く階段になっていて階下の方からバタバタと駆け下りる音が聞こえる。
その音を追いかけて俺も一段飛ばしで駆け下りると、地下二階のドアを開けてフロアに出ていく男の背中が見えた。
男に続いて地下二階に出ると駐車場になっており、ピッという車のスマートキーだろう音がした方を見ると男が車のドアを開けたところだった。

エンジンがかかる音に焦りながら車のドアを開ける。
普段から自動ロックに頼っているのだろう、迂闊なことにドアロックをかけてなかったのが幸いして発進する前にドアを開けることができた。

「はいちょっと待ってくださいね」

シートベルトをつけようとしていた男の腕を引っ張って強引に車から引き出す。
俺らしくない行動に違和感を持ちつつも相手は逃げていたわけで強気に出させてもらう。
それにしてもドアロックといいシートベルトといい、この男もそれなりに焦っているのだろう、普段の行動を無意識になぞってくれたおかげで捕まえることができた。

「なんですか?やめてください」

大人しく車から降りた男は今さらしらばっくれた様子ではぐらかそうとする。

「すいませんねえ。おたく天道宗の人でしょ?」
「…………」

男は何も答えない。
なんと答えて良いのかわからないのかもしれない。

「本部長さんは今頃警察に捕まっているので、この施設にある招霊箱を全部回収しちゃいたいんですけど、どこにあるか知ってます?」

とりあえず天道宗はもう終わりだということを伝えてみる。

「本部長が…小木先生はどうなったんですか?」

俺の言葉に男は腹を括ったのか、はぐらかさずに答えてくれた。

「先代さんは亡くなりましたね。私は見ていませんがお見事な最期だったと聞いてますよ」
「…………」

小木老人が死んだという言葉に男は目を閉じた。
そしてすぐに目を開けて再び俺と目を合わせる。
その目から戸惑いが消えているのがわかった。

「そういうわけで箱に関しては使い道を指示する人もいなくなっちゃいましたんで、警察に押収されて余計な被害を出すよりは我々で浄霊したいんですが協力してくれませんかねえ」
「……わかりました。こちらへどうぞ」

男はエンジンを停止させドアをロックして歩き出した。
逃げるのは諦めてくれたようだ。
再び階段を使って地下三階へ案内される。
そこは普段人が来ることを想定していないだろう殺風景な作りで、『倉庫A』や『機械室』などのプレートが見える。

案内されたのはその中の一室で『倉庫C』というプレートが掲げられていた。
男がカードキーで解錠して鉄製の扉を開ける。

「…………」

壁一面に魔除けや封印と思しきお札がいくつも貼られた異様な倉庫。
保管されていたのはダンボールなどではなく例の黒い箱で、部屋の中には濃密なあの気配が満ちている。

開いたドアから漏れ出してくるその気配だけで鳥肌が立つ。
男も同じなのか倉庫に入る様子はない。

「ここにあるのが我々の保管するすべてです。警察に押収されて警察署内で被害が出るのは我々としては望むところです」

そう言ってから意を決したように男が倉庫に入っていく。
逃げ出したい気持ちが沸き起こってくるが、箱を開封されては堪らないので男を取り押さえられる距離で俺も後に続く。
案内させはしたが相手は箱を躊躇なく開封する危険な邪教集団だ。
ここに来て俺1人しかいない状況で案内させたことを後悔していた。

部屋の中はガランとしており、スカスカの棚や床に五つの招霊箱が置かれてあるだけだ。
箱の配置や隙間からいくつもの箱がつい最近運び出されたであろうことがわかる。
部屋の広さから考えても、外に持ち出されて大霊障に使用されたのは10では済まないだろう。

「あらららら。ここにこれだけしか無いってことは、他のは昨日全部使っちゃったってことですか?」

俺の言葉に男は振り返った。

「ええ。大霊障は無事に始まりました。あとはここに乗り込んでくるあなた方を迎え撃つための最低限の箱を残しておけば良いので」

迎え撃つね。
そのためにロビーにいた人達を犠牲にしたと。

「……こうなることも予測していたと?」
「当たり前でしょう。我々がどれだけ準備してきたと思ってるんですか。奪われるくらいなら封印を解除して少しでも多く被害を出すというのはずっと前から決まっています」

奪われるくらいなら、人を傷つけたり殺したりする悪霊を解き放って混乱を起こしてしまえと。
混乱そのものが目的、現状の破壊こそが招霊箱の使い道、思想がないぶんテロリストよりタチが悪い。
男の投げやりなながらもやや愉快そうな様子に腹が立ってくる。

「天道さんの箱を解放してキタムラさんという方に憑依させるっていうのは?」

俺は篠宮さんのような弁舌家ではないから話題を変えることにした。

「まさに今、12階で供身の儀を行っているところです。あなた方が真っ直ぐ12階に向かっても間に合いませんよ」
「それは残念。できれば天道さんの箱こそ厳重に囲んだ上で浄霊したかったんですが」
「それは叶わないでしょうね。そもそもあなた達を上に行かせる気はありません」

そう言って男は部屋奥に移動し、右手で何かを持ち上げた。
見ると男がヒラヒラと振っているのは、招霊箱に貼り付けてあるお札だった。
何事かと思って部屋の中を見ると俺に一番近い箱にはお札が貼っていなかった。

いつの間に札を剥がした?
俺が部屋の中を見回している隙にやったのだとしたら最初からそのつもりだったわけだ。
男の手から視線を上げると、俺を見据える男の目には覚悟の色があった。
まさに今、俺を殺すために箱を開封したのだと語っていた。

「どのみち終わりなら、私も私の使命を全うします」

その目の強さにゾッとして、何も考えず部屋から飛び出して扉を閉める。
俺自身どういう思考をしたのか自分でもわからないが反射的に体が動いて外に出た。
力任せに鉄の扉を閉じてドアノブが回らないよう握る。

篠宮さん達の元へ戻るべきか迷う。
もし霊が出てきて他所へ行ってしまったら?
もし霊が俺を追いかけてきて除霊中の伊賀野さん達の邪魔になったら?
邪魔どころか挟み撃ちになりかねない状況を作り出すのはまずい。

中は?
どうなっている?
男は供身の供物として自分を捧げたのか?
それとも単に札を剥がしただけ?
もう少しだけ中の様子を見てから飛び出すべきだったかと悔やむ。
供身で取り憑いた霊は供物の体を操って行動するはずで、もしここで抑え込めたなら、そう考えてしまったのが悪かった。

「あぁ……あ……ぅあぁぁああああ!!!」

倉庫の中から男の絶叫が聞こえる。
複合霊が出てきたのだろう。
何を思ったのかわからないが、自分を犠牲にしてまで俺に害を与えるためにあの箱の札を自ら剥がした。
小木老人と同じように自ら命を差し出したのだ。
テロリスト。
まさに自爆テロだこれは。

「あああああ!!……ぐ…ああ……ぅ……」

男の絶叫は力無い呻きに変わっていき、やがて鉄の扉に遮断され聞こえなくなった。
死んだのか、気を失ったのか、取り憑かれたのか、いずれにせよ男は複合霊にやられてしまったのだろう。
どっちだ?
霊なら鉄の扉なんか意味がないし、供身なら男の力が強くなった程度のはずだ。

「…………」

L字型のドアノブを両手で握って中の気配を伺うが、鉄の扉の向こうからは気配なんて感じられない。
逃げるべきだ。
だが逃げて伊賀野さん達の足を引っ張るのはダメだ。
思考が堂々巡りを続ける。
クッ…とドアノブを回そうとする力を感じて、ドアノブを握る手に全力を込める。

「南無大師遍照金剛…お大師様どうかお力を…」

押し下げる力の方が有利なわけでドアノブは徐々に下がり始める。
っと、不意にドアノブを回そうとする力がなくなった。
そして、倉庫の内側からダァン!と大きな音を立てて扉に何かがぶつかった。

「…………!!」

突然の轟音に心臓が跳ねるが、ドアノブをめぐる攻防がひとまず終わったことに安堵する。
ダァン!ダァン!ダァン!と凄まじい音が立て続けに響いて、その度に鉄の扉が揺れる。
これは…供身か?
霊が男の体を操って扉に体当たりしている?
ダン!ダン!ダン!ダン!と扉を叩く音、そしてダァン!という音と共に揺れる扉。
およそ理性的とは思えない。

そうかと思ったらまたドアノブがグッと回される感覚がして必死にそれを抑える。

「唵阿毘羅吽欠(オンアビラウンケン)!南無大師遍照金剛!」

気合いと共に全力でドアノブを維持するが、押し下げる力の方が強く扉が内側から勢いよく開いた。
突き飛ばされ転ぶも怪我を気にする暇はない。
扉の方を見ると男はまだ出てきていない。

こうなってしまっては男が出てくる前に逃げるしかない。
しかしどうしても中を確認したくてゆっくりと近寄っていく。
先ほどの、供身なのか取り殺されただけなのか分からなかった時の後悔を解消したかった。

「…………」

恐る恐る中を見ると、男の体は先ほどいた部屋の奥で背中を壁に預けて尻餅をついていた。
見開かれた目は動いておらず、鼻血を垂らして口をだらしなく開いている。
男の体を操っていたわけではないのか?
そうすると先ほどまで扉を叩いていたのは?

「ククククククク」
「ひひひひひひひ」
「ケケケケケケケ」
「クスクスクスクス」

倉庫の中から子供のような、老婆のような、小さくて高い複数の笑い声がした。
それを聞いた瞬間、全力で振り向いて階段へと走る。
出てきた霊は男を殺した。
取り憑いてはいない。
俺一人では対処不可能。
なので逃げるしかない。

「唵阿毘羅吽欠……南無大師遍照金剛……」

走りながら読経してさらに思考を巡らせる。
逃げるべきだ、伊賀野さん達の邪魔になってしまうだろうが、あそこには全員揃っている。
それにもう終わっているかもしれない。
いくらでも謝って、助けてもらうしかない。

そう考えながら階段を駆け上がる。
霊は憑依してはいなかった。
扉をバンバン叩くのもドアノブを回すのも霊がよくやることだし、気味の悪い笑い声からもアレが享楽的な性質なのがわかる。
男を殺したアレは今度は俺をロックオンしただろうか。
階段の踊り場で折り返した時、上の地下二階に出る扉の前に男が立っていた。

「嘘だろ……」

先ほど倉庫で死んでいた男が…いや死んでいなかったのか?
それにしてもこの数秒で俺を追い越すなど不可能だし、現に追い越されていない。
ということはアレが霊だ。
男のフリをしてそこに立っている。
足が止まってしまったがカバンの中から数珠と独鈷杵(とっこしょ)を取り出して構える。
本来の使い方ではないが見た目が武器っぽいので相手が怯んでくれるかもしれない。
戦うわけではない、だが怯ませて逃げることはできるかもしれない。

「唵阿毘羅吽欠!南無大師遍照金剛!」

気合いの声と共に駆け上がる。
男の姿をした霊は動かない。
独鈷杵で殴りかかる構えをしてそのまま男の脇を駆け怪談を上がる。
そしてまた踊り場で折り返して見上げると、地下一階の扉の前に男が立っていた。
ふざけんな!
と心の中で悪態を吐きつつも足は止めない。

「唵阿毘羅吽欠!南無大師遍照金剛!」

大日如来様とお大師様に加護を祈りつつ牽制のように独鈷杵を目の前に掲げて駆け上がる。
すると今度は男がこちらに向かって降りてきた。
明らかに俺を捕まえようとしている。
触られたくない。
霊だから触れあうことはないが、空間的な接触は避けたい。
しかし狭い階段では逃げようがなく、俺は最後の牽制として右手に持った独鈷杵を男の顔の前にかざした。
男は気にせずフラフラと近寄ってきて、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

「…………」

気がつけば俺は踊り場に倒れていた。
背中と後頭部が痛い。
見上げると男がフラフラと階段を降りてくる。
突き飛ばされたのか、気を失って転げ落ちたのか、とにかく俺を逃すつもりはないということだ。

それならばと腹を決めて俺はその場に正座した。
やってやろうじゃないか。
息を整える間もなく目を閉じていつものお経を唱え始めると、男の足音が止まった。
しばらく読経を続けていると、呼吸も落ち着いてきた。
お気に入りのお経に気持ちを込めて祈る。
あなたの思いを聞かせてくださいと念じる。
除霊の前にまずは浄霊を試みる、いつものやり方だ。
この悪霊相手にそれが通じるかわからないが、逃げられない以上こうするしかない。
出来れば篠宮さん達が探しにきてくれるまでこう着状態を作りたい。

男は動かない。
俺はひたすら相手の安寧を願いながら、話を聞かせてくれと念じる。
やがて相手が応じる感覚がして、相手の声が聞こえてきた。

「ククククククク」
「ひひひひひひひ」
「ケケケケケケケ」
「クスクスクスクス」

階段に不気味な笑い声が響く。
そしてそれらとは別に、複合霊自身の声も聞こえてきた。
いつも感じるあの、何人もの声が混ざったような、日本語と中国語と韓国語と英語と他にも様々な言語で同時に話しかけられているような、聞き取れない声。
聞き取れないにも関わらず、複合霊はこちらの接触に応じたのかさまざまな感情やイメージが頭の中に伝わってきた。

嘆き、苦痛、怒り、慟哭、怨嗟、苛立ち、嘲笑、呪詛、諦め、害意。

様々な負の情念がうねりのように脳に響いて不快感とともに吐き気が込み上げてくる。

「ぐっ…ぅ…」

篠宮さんもよくえずいているが俺もあまりの不快さに読経が乱れてしまった。
複合霊は自分の内面を俺に見せつけて、救えるものなら救ってみせろと思っている。
聞き取れない声と共にそんな思考が伝わってきた。

箱の中のイメージ。
俺にはそれが鍋の中に見えた。
煮えたぎる様々な嘆きの中で、自分もそこから出られないという絶望。
肉体がないのだから痛みを感じるのは頭というか脳というか精神だ。
絶え間ない頭痛に晒され続けているような感覚。
精神を削られる痛みに絶叫を上げるしかできない。
生前持っていた楽しい思い出や愛しい感情は瞬く間に忘れ去った。
まっとうな感情を保てるほど優しい環境ではない。
苦しくて苦しくて今すぐ消えたいのにそれができない苦悩。
何人もの嘆きが鍋の中で煮えたぎっている。
この霊の見ていた世界はそういうものだった。

「ぐっ…げ……げぇぇ……」

そんなイメージを見て俺は今度こそ吐いた。
胃の中身をぶちまけると床を見ると吐瀉物の上に血がポタポタと落ちていく。
口を拭うと吐瀉物と血が混ざり合っていた。
鼻血でも出たか。
相当やばいぞこれは。

「ククククククク」
「ひひひひひひひ」
「ケケケケケケケ」
「クスクスクスクス」

周囲を不快な笑い声が包む。
男が階段を降りる足音が聞こえる。
目を上げると男がフラフラと階段を降りてくるのが見えた。
まだだ、まだ終わっちゃいない。
再び居住まいを正して読経を再開する。
男の足音は止まらない。

それでもあなたは箱から出てこれた。
混ざり合った霊達から解放される時が来たんだ。
解放できる手立ては今のところないが、御仏に縋らなければあなたは苦しいままなんだ。
そう念じて俺達に任せろと強く呼びかける。
階段を降りる足音は止まらない。

頭が重くなってくる。
相手の救済を訴え続けるも聞く気がなければ伝わらない。
ならば退散せよと念じてもこの悪霊相手に数の有利もなしに言うことを聞かせることはできない。

だんだんと俺の体にも不調が出始めたのがわかる。
さっきから寒くて寒くて仕方がないし、正座しているのも辛いほどに倦怠感を感じる。
ガンガンと痛む頭で必死に読経する。
顔の下半分が血でヌルヌルして読経しづらい。
まだだ、まだ終われない。

男の足音が目の前で鳴った。
いつのまにか気を失っていたのか、それまでゆっくりと降りてきていたはずの男が目の前に立っている。
ダメか。
もう終わりなのか。

「□△」

初めて1人分の声で話しかけられて顔を上げる。
そして俺は信じられないものを見た。
目の前に立つ男は、虚な目で俺を見下ろしている。
その男の後ろからさらに大柄な人影が現れて、男の頭を横から思い切り殴りつけたのだ。
後ろから強烈なフックを見舞われた男は俺から見て右側に吹き飛んでいった。

霊を殴りつけたことに愕然とするも、その違和感にはどこか既視感があった。
それに男を殴りつけた大柄な男性に俺は見覚えがあった。
筋骨隆々の大男。
コワモテだが俺を見下ろし片方の眉をヒョイっと持ち上げるコミカルな仕草。
殴り倒した男に歩み寄ってさらに馬乗りのマウントポジションで殴りつけるやり方。

「ホンさん……」

外国人労働者の男に取り憑いて殴り殺そうとしていた霊。
老師やハオさんと出会うきっかけとなった悲しい一家の事件。
老師に説得され俺の読経で成仏したいと言ってくれた彼が今、目の前で複合霊を殴りつけている。

「成仏しませんでしたっけ?」

間抜けな問いになってしまった俺を振り返り、ホンさんは『行け』とジェスチャーをした。
馬乗りになっている男は動かないままだが、あの複合霊が相当ヤバいのはホンさんもわかっているのだろう。
俺に早く行けとジェスチャーを繰り返す。

「ホンさんありがとう!恩に着ます!」

そう言って勢いよく立ち上がったところであれ?と思った。
体が軽い。
頭痛も倦怠感も寒気もない。
鼻血こそ垂れているものの痛みも何もない。
階段を駆け上がりながら考える。
ということは先ほどの不調は全て複合霊の影響によるものだったのだ。
ホンさんが助けに入ってくれたから複合霊の呪詛が俺に届かなくなったのだろう。

ホンさんに改めて感謝を念じる。
一階にたどり着いたところで鼻を拭って扉を開ける。
武者の霊と対峙している最中なら余裕のありそうな人にヘルプを願うつもりだったが、幸いなことに除霊は終わっているようだった。

「すみません皆さん!もう一体お願いします!」

そう声をかけると皆が一斉にこっちを向いた。
篠宮さんの方に駆け寄ると皆集まってきてくれたので事情を説明する。
迂闊にも蓋を開けさせてしまったことを詫びて、地下の複合霊を皆で祓う必要がある旨を伝える。

「上等じゃねえか。今度は俺がやらせてもらうわ」

神宮寺さんが真っ先にそう言って歩き出し、それに皆で続く。
階段へ続く扉を前に一旦立ち止まる。
身構えて鉄の扉を開けると複合霊の強い気配がロビーに染み出してくる。
扉の開いた先に複合霊はいない。

神宮寺さんに続いて俺が2番目に階段へ入り下の様子を確認する。
ホンさんは未だ馬乗りになっているが、複合霊に何かをされているのか両手で頭を抱えていた。
屈強なホンさんといえど並の霊だ。
何十年何百年と箱の中で食らいあい恨みを醸成してきた複合霊にかなうはずがない。
早く助けねば。

「あのマッチョは味方でして、彼が助けてくれたんです。だからあっちの白衣の男をやっつけましょう」

続けて階段に入ってきた皆にホンさんを紹介する。
なんのこっちゃわからない様子の皆に、伊賀野さんが助け舟を出してくれた。

「笠根さんって本当に主人公よね。あの人ホンさんでしょ?」
「ええまあ。そうなんですが」
「荒ぶる霊を大人しくさせて浄霊しただけでもすごいのに、その霊が駆けつけてくれるなんてどこの漫画なの?って感じよ」

いやまあハハハと笑って誤魔化すしかない。
俺が一番びっくりしてるんだから仕方ない。

「何それ。和美さんそこのところ詳しく聞きたいんだけど」
「いいわよ。コウ老師と初めて会った時のことは話したでしょ?その時に笠根さんがあのマッチョと娘さんを成仏に導いたのよ」
「ああー。あの話の」
「成仏させた霊が恩義に感じて守護霊になったってか。俺にもそんな経験はねえなあ」

軽口を叩きながらも彼らの目は階下の複合霊を観察している。
気合いが入っていくのがわかる、いつもの光景だ。

「神宮寺さんが主導でやるんでしょう?私もサポートするわね」
「ああ頼む。平野さんも自由に行動してもらって構わない」

平野さんもやる気になってくれているようだ。
お疲れ気味の伊賀野さんを休ませるつもりなのだろう。

「もちろん私も参加しますよ。さっき殺されそうになったんで、きっちりカタをつけようと思います」

俺もそう言って階段を降りる。
早くホンさんに加勢したかった。
神宮寺さんと平野さんが並んでくれたので、主導は任せますよと先頭を譲る。
もともと俺は自分が主導したいタイプではない。
今回もバッチリサポートさせていただきますよ。

降りながらも神宮寺さんが手で印を結んで何かを呟いた。
右手の人差し指と中指で剣印を結んで空中に何かを書く。
そして複合霊とホンさんの前に立って複合霊の方に剣印を突きつけた。

「えい!」

途端にホンさんが弾かれたように転がって複合霊から離れた。
不思議そうに俺達を見たので手を合わせてお辞儀する。

「ホンさん、謝謝(シェイシェイ)」
「…〇…□□」

お礼を言うとホンさんは頷いてからまた皆を観察し始めた。

「えい!」

再び神宮寺さんの気合いの声が響いた。
顔を向けると複合霊は起きあがっており、平野さんがお経を唱えている。
彼らの隣に立って平野さんのお経に合わせて唱和する。
二人のお経が仏の功徳を示す中で、神宮寺さんの不思議な術が行使されていく。
先ほどまでとはうって変わった不利な状況。
複合霊からは苛立ちを示すような聞き取れない声が響いてくる。

「ククククククク」
「ひひひひひひひ」
「ケケケケケケケ」
「クスクスクスクス」

取り囲むような笑い声も気のせいか大きくなった気がする。

「こりゃ妖怪かもな」

印を結んだまま神宮寺さんが声をかけてくる。
術の途中でも神宮寺さんは会話ができるのか。
何度尋ねても企業秘密と言って教えてくれないが、神宮寺さんは仏教にも神道にも精通している不思議なお方だ。
除霊中の余裕の態度にも尊敬と憧れを覚える。

「昔、ヨリワラシっつー妖怪を説得して村から出て行かせたことがあるんだが」

なんと。
そんなことまでしていたのか。
恐るべし年の功、いや単純に神宮寺さんの経歴がすごいというだけか。
読経をしているため反応できないが、神宮寺さんの解説は続く。

「その時の雰囲気とよく似てるわ。もっともこいつはそんな可愛いもんじゃねえけどな」

そしてまた「えい!」と気合を入れて剣印で目の前の空間を縦に切り裂いた。

「クククク…」
「ひひひひ…」
「ケケケケ…」
「クスクス…」

周囲を飛び回っていた声がぴたりと止んだ。
複合霊が苛立ったような絶叫をあげる。
後ろから伊賀野さんの読経も聞こえるので、いよいよ逃げ場がなくなって狼狽えているのだろう。

「もうあと一息だが笠根さん、どうする?」

トドメを刺すか?と聞いてくる。
本当にこのお方はお見通しだな。

「最後にもう一度浄霊のチャンスをあげたいと思ってます」

殺されそうになった相手だが、滅してしまうにはこちら側の努力が足りない。
今なら話を聞いてくれるかもしれない。
それでダメならその時は仕方ない。

「そうかい。やってみなよ」

笑顔で譲ってくれる神宮寺さん。
複合霊を追い詰めた自負など彼にとってはどうでも良いのだろう。
頭を下げて感謝を伝え、神宮寺さんに代わって霊の正面に立つ。

立ったままいつものお気に入りのお経を唱えてみる。
ホンさんを送ったお経だ。
俺達の除霊を離れたところで見ているホンさんは懐かしがってくれるかもしれないな。

先ほど複合霊に語りかけたのと同じお経で、こちら側の意思は変わらんぞと示す。
先ほどはつながりを通じて殺されそうになったが、今はこうして取り囲んでいるわけで、相手も弱っている今なら大丈夫だろう。

俺の読経に合わせて神宮寺さんも平野さんも伊賀野さんも唱えてくれる。
先ほどの追い込まれた状況とは打って変わって頼もしさに余裕も出てくる。

落ち着いて、あなたの思いを聞かせてくださいと念じる。
先ほどと違い応じる気配はない。
やはりあの時は俺を攻撃するために接続してきたのだろう。
だがここには仲間達がいて、皆それぞれ悪霊を強制的に滅してしまう方法を知っている。
魂の殺人、本当の殺人など誰も望んではいない。
殺されそうになった恨みはあるが、それはあっちも同じこと。
天道宗の理不尽な術に、あの地獄に長い間縛りつけられたのは哀れという他ない。

しばらく読経を続けていたら、やがて相手が応じる感覚がした。
先ほどと同じように相手の感情が流れ込んでくる。
精神的に身構えつつも相手の記憶を受け入れる。

嘆き、苦痛、怒り、慟哭、怨嗟、苛立ち、嘲笑、呪詛、諦め、害意。

それら負の情念が再びうねりのように脳に響いてくる。
だが覚悟していたたけあって先ほどのような動揺はなかった。
そしてやはり先ほど同様に箱の中の地獄のようなイメージを見せられ、最後に複合霊が現在感じている感覚を伝えてきた。

嘆き、怒り、慟哭、怨嗟、苛立ち、嘲笑、呪詛、諦め、害意。

そうか、痛みはもう、ないのか。
箱を出たばかりの先ほどは痛みの感覚が残っていた。
だが俺を苦しめ、ホンさんと争い、俺たちが準備して戻ってくるまでの間に、痛みが消えていることには気がついた。
あの箱から出られたことで、彼らを猛烈に苛んでいた苦痛からは解放された。
だが蓄積された痛みが、怒りが、悲しさが、どうしようもなく彼らを荒ぶらせるのだ。

今のままでは救われない、あなたは御仏の前に出て慈悲を乞うべきだ。
そうしなければその辛さからは救われない。
伝えられたイメージに呼応して俺も強く念じる。

周りにいくつもの光が見えるのがわかるか?
俺達に任せて、俺達を信じて話を聞いてくれないか?
天道には必ず報いを受けさせる。
だから安心して成仏してほしい。
ひたすらに念じて読経を続けていると、やがて複合霊の中から諦めの念が強くなっていくのがわかった。

すまない、と思う。
箱から出てようやく苦痛から解放されただけで、嘆きも憎しみも消えないのに、消滅か成仏かを選ばされるのだ。
勧請院さん曰く、もう一度死ねと。
周りを囲まれて逃げ場もなく、ただ強制的に成仏させられる。
さもなくば滅すると脅されて。

だがそうしなければこちらが殺されるのだ。
大霊障に巻き込まれた方々も訳もわからず殺された。
あなたは成仏か消滅かの二択から選ばなければならない。
箱の中で消えてしまいたいと願った気持ちはここに置いていくといい。
せめて生まれ変わってやり直せると希望を持って終わりを受け入れてくれ。
頼む。

どれだけ念じていただろうか。
相手から伝わる意識の大半が諦念に変わっていき、やがて安堵の心が現れ始めた。
天道に対する恨み、理不尽な状況に対する怒り、他の人格と混じり合ってしまったことに対する不快感、そういうのが一つ一つ諦めに代わっていき、そして手放すことで安堵が生まれる。

すまない、ありがとう。
複合霊がそれらを手放すたびに詫びを入れる。
本来ならあり得ない理不尽な諦め。
死後の作法を全く無視した天道宗による虐待。
それを責める権利は与えられるべきだ。
だが彼らがあまりにも強力なためにその機会は与えられない。
彼らにしてみれば俺達もまた理不尽の一つなのだ。

すまない、すまない。
幾度も詫びと感謝を繰り返して、やがて複合霊は俺の助言を受け入れるという意思を示した。
伝わってきたイメージは天道宗の男ではなく、5人の少女だった。
人間のようでいてどこか違和感のある外見。
先ほど神宮寺さんが言っていたヨリワラシという言葉を思い出した。
この妖怪がおそらく箱の中で勝者となった霊なのだろう。

ヨリワラシ、寄り童か。
どんな妖怪かわからないが、きっと元来それほど悪辣な存在ではないのだろう。
見た目が愛らしすぎるじゃないか。
この複合霊が俺にそれを見せたということは、きっと覚えていてくれということなのだろう。
ホンさんの時もそうだった。
忘れない、毎年五月の初めに必ず君達のためにもお経を上げるから、俺達に任せて成仏してくれと念じる。
何も反応はなく、それ以上の問答は不要だという意思を感じた。

やがて複合霊はその存在を薄れさせていき、やがて完全に消えてしまった。
自らの意思で成仏していったのがわかってフムと息をついた。

「お見事」

読経を終えたタイミングで神宮寺さんが声をかけてくれた。

「ほんとさすがよね。あんなに霊の心をガッチリ掴めるのなんて笠根さんくらいだわ」

伊賀野さんもヨイショしてくれる。
労われているのはありがたいが調子に乗ってはいけない。

「いやあ、やっぱり浄霊は取り囲むに限りますな」

はっはっはと笑って誤魔化す。

「笠根さん、最後のほうウルっと来てませんでした?」

篠宮さんがニヤニヤしながら近づいてくる。
読経しながら鼻を啜ったのに気づかれたか。

「そりゃあ泣きそうになりますよあんなの、理不尽すぎるじゃないですか」

開き直ってそう返すと、「後で霊とのやりとり教えてください」と手を合わせてきた。
はいはいといなしていると、篠宮さんの背後にヌッと大きな人影が立った。
背後に目をやった俺に気づいた篠宮さんが後ろを振り返ってギョッとする。
「うひゃっ」と声をあげて飛び退いた篠宮さんの代わりにホンさんが俺の前に立つ。
かと思ったら横に回って背中をバンバンと叩かれた。

「いたた、ちょっとホンさん何するんですか」

抗議の声を上げると、ホンさんは片方の眉をヒョイっと持ち上げてからスーッと消えた。
しっかりしろと言いたかったのか、よくやったと言ってくれたのか、ともかくホンさんは何も言わずに消えた。

「あらー消えちゃった」
「あっさり消えましたね」

伊賀野さんと篠宮さんが驚きと感想を口にする。
俺としてもちゃんと礼を言う前に消えてしまったのは残念だが、ホンさんらしいともいえる。

「まあでも、ホンさんが来てくれなかったら間違いなく死んでましたんで、ありがたい限りですな」

そう言うと篠宮さんが先ほどのことを聞きたがったので、俺は自分がいかに浅はかで、どういう経緯でホンさんが助けに来てくれたのかを話した。
そしてミルキーウェイのスタッフといえども天道宗の人間はガチで命を捨てにくる狂信者だということも。

「何あの人……男前すぎない?」
「浄霊した時はもっと怖い感じだったんだけどね。守護霊やってるくらいだから色々と吹っ切れたのかしら。さっきのアニキっぷりが元々のホンさんなんでしょうね」

篠宮さんが目をキラキラさせるのに対して伊賀野さんは冷静に振り返っている。

「だろうな。生きてる時に会ってみたかったって奴は沢山いるが、あのアニキもそんな感じがするな」
「笠根さんが無事で本当に良かったわ」

神宮寺さんと平野さんもそれぞれ感想を言ってくれる。
連雀さんも興味津々といった顔だが特にコメントはないようだった。

「けどまあ、土壇場で助けに来ないとヤバいくらいには、笠根さんマジで死んじゃう寸前だったってことでしょ」

伊賀野さんの口調が少し責めるような色を帯びる。

「私たちがお祓いしている最中のことだし、招霊箱のありかを突き止めたのはすごい助かるけど、それで死んじゃったら意味ないんだからね?」
「はは…はいはい、気をつけます」

確かに。
迂闊だったのは間違いない。
ホンさんが来てくれなかったら本当に殺されてたわけで。
伊賀野さんの言葉は完全に正しい。

「だな、これからは最低でも二人ひと組で行動するのを決め事にするか」
「賛成です。臨機応変は仕方ないにしても、どこかに行く時は必ず誰かと一緒に行くと」

神宮寺さんと篠宮さんが話をまとめてくれ、伊賀野さんのお説教はそれで終わった。
その場で全員で合唱しホンさんに敬意を表して、改めて地下の倉庫へ向かう。
篠宮さんがカードキーで解錠してドアを開くと、そこには冷たくなった白衣の男と、いくつかの招霊箱が変わらず置かれていた。
誰かが運び去るようなことはなかったわけだ。

「上でやってる儀式とやらに全員がかかりっきりになってるってことだわな」

神宮寺さんの言葉に全員が頷く。
男の死体をチェックすると小木老人と同じように胸に『供身』の呪術印があった。
男はこれを使って複合霊を自分の体に憑依させようとしたわけだ。
だがそれは失敗した。
ヨリワラシを主体とした複合霊はこの男の供身には従わなかった。
それは儀式の未熟を示すのか、あるいは突発的な事態で霊と男のつながりが薄かったからなのか。
それはわからない。
だがこの男は供身の生贄として自らを捧げ、結果としてただ複合霊に殺されてしまった。
現状でわかるのはそれだけだ。
ふーむと篠宮さんがため息をついて傾聴を促した。

「この倉庫にはカードキーがないと入れないわけですし、警察が来て押収される前に全部お祓いしちゃうのと、今すぐ12階に行って天道をぶっ倒すのと、どっちを優先すべきだと思います?」

救急要請を受けた救急車が到着するのは間もなくだろう。
現場に駆けつけた救急隊員が警察を呼んで警察が来るのはさらに数分後だ。
あるいは救急車と一緒に警察も駆けつけるかもしれない。
現場を封鎖するチームが来て現場検証をして、大霊障で亡くなった方達と同じだと判断をする。
さらに小木本部長自ら警察に自白するわけだから、どのみち時間はあまり残されていないかもしれない。

「そら天道だわな。儀式が終わっちまったら警察が来る前に奴も身をかわすだろうよ。そうなっちまうともう手がつけられねえ気がする」

神出鬼没の天道宗。
それを天道本人にやられると何が起こるかわからない。
そう結論に達して、俺達はこの部屋を一旦保留にして12階へ上がることにした。
エレベーターは危険だということで階段で12階を目指す。
流石に神宮寺さんはキツそうだった。

途中で招霊箱の襲撃を受けることもなく12階フロアに出ると、廊下には何人もの白衣を着た人間が倒れている。
そしてこれまで感じたことのない強烈な霊の気配がフロア全体を包んでいた。
天道。
それを封じた箱が確かにこの階にある。
倒れている人達はこの気配に当てられて昏倒したのだろうか。

「この気配には覚えがある」

連雀さんが珍しく口を開いた。

「道厳寺にあった天道の箱。1人なら絶対に近づきたくない」

興信所の職員と共に道厳寺に侵入した連雀さんが見たという『天道』と掘られた台座。
連雀さん1人ではどうにもできないと判断して撤退したらしい。

「間違いねえってこったな」
「ですね。仲間ですらこんなになっちゃうなんて」

神宮寺さんと篠宮さんはいつも通りだが伊賀野さんは若干顔が強張っている。
おそらく俺も似たようなものだろう。
それでも行くしかない、そう思っていたら。

「何か来る」

連雀さんが短くそう言った。
彼女の見ている先はT字路になっていて、俺達から見えない位置に確かに何かの気配がある。

「オン〜アミリタ〜テイセイ〜カラウン〜」

徐々に近づいてくるその声に嫌な想像が湧き起こる。
阿弥陀如来様の真言。
ついさっき聞いたその真言は、供身で霊を憑依させた小木老人を操っているように見えた。
つまりあの角から現れるのは。

「供身してやがる」

神宮寺さんが吐き捨てるように言った。
角から現れたのは白衣を着た職員だった。
その目は虚で、小木老人や地下の男と同じようにはだけた胸に『供身』の呪術印が彫られている。

「オン〜アミリタ〜テイセイ〜カラウン〜」

そしてその後ろから、2名の修験者の格好をした男達が現れた。
天道の気に当てられて死んでしまった職員を利用したのか、あるいは。

「仲間を武器にしやがったのかてめえら!」

神宮寺さんが吠える。
いくらなんでも気に当てられただけで死ぬなんて考えにくい。
地下の男のように自ら供身したのでなければ、倒れている職員に霊を取り憑かせたと考えるのが妥当なわけで。
となると本人の意思とは無関係に供身の生贄にされてしまったのかもしれない。
自爆テロを躊躇しないにしても、自らの意思でない自爆テロは流石に卑劣すぎる。

シッ、と神宮寺さんが空間を切る動作をする。
両手で印を結び、その形を次々に切り変えて、再びシッと鋭く息を吐く。
それを繰り返してから最後に大きくシッ!と吐いて剣印を職員の方に突きつけた。

「……ぁあ……あぁぁあああ……」

男がこちらに向かって走り出した。
神宮寺さんに向かって両手を突き出し突進してくる。

「よいしょおっ!」

神宮寺さんが見事な背負い投げで男を投げ伏せるも、すぐに立ち上がって神宮寺さんに追い縋る。
篠宮さんが冊子を手に祝詞を唱え、連雀さんが鎖のようなものを取り出して構えている。
平野さんが読経を始め、伊賀野さんがそれに合わせたので俺は神宮寺さんのヘルプをすることにした。

「オン〜アミリタ〜テイセイ〜カラウン〜」

天道宗の術者をなんとかできれば一番いいのだが、荒事は俺には無理だ。

「もう一度投げてくれますか」

連雀さんの声に神宮寺さんが何度目かの背負い投げで男を地面に叩きつけた。
倒れた男の足に連雀さんが金の細い鎖を巻き付けると、そのままエビ反りにするように鎖を引っ張った。
神宮寺さんが男の両腕を腕ひしぎとカニバサミの姿勢で押さえつけ、男は体を激しく捩るものの動けなくなった。

「や!……ちょ…触んないで!」

男の足を固定した鎖を引っ張り続ける連雀さんの上に修験者の1人が身をかがめ、連雀さんの手から鎖を奪おうとしている。
真言を唱えつつも実力行使に出たのだ。

何も考えず体が動いた。
連雀さんの元へ駆け寄り前のめりに身を屈める男の鼻っ面を思い切り蹴り上げる。
蹴った後で連雀さんに当たらなくてよかったと思った。

「ぐぶ…ぐあああ!」

修験者は鼻を押さえて悶絶している。
足のつま先でサッカーボールみたいに蹴ったから鼻は折れたかもしれない。
肉を蹴るグニャリとした気持ち悪い感触が残っている。
まさか僧侶がやることではないが、仲間を殺して我々を殺しに来る奴らに手加減などできない。

職員の男を操る修験者は1人になったが、その分より大きく気合を入れて真言を唱えている。
伊賀野さん平野さん2人の読経と、篠宮さんの祝詞、男に取り憑いた悪霊は逃げ出したくてたまらないはずだ。

「皆!…う…後ろ!」

ふいに近藤さんが声を上げたので振り返ると、俺達を挟んで反対側からも2人の修験者と1人の亡骸が近づいてくるのが見えた。

「笠根さん!代わってくれ!」

男の両腕を押さえつけている神宮寺さんが自分と変われという。
慌ててその言葉に従い神宮寺さんのそばに膝をつく。
次の瞬間、強烈な衝撃が右頬に起きて俺は意識を飛ばした。

気がつくと俺は床に倒れており、見上げると鼻から血をダラダラ垂らした修験者が俺を見下ろしていた。
その目は憎悪に燃えており、これから何をされるのか気がついて頭が真っ白になった。
男が足を上げて俺の顔目がけて踏みつけてくる。
両腕を顔の前にクロスしてガードするも、何度も本気で踏みつけられた両腕が痛くてたまらない。

ふいに蹴り付ける嵐が止んだ。
何か起きたのかと周りを見ると近藤さんが修験者の傍に立っており、男は腹を抱えてうずくまっている。
どうやら近藤さんが助けてくれたようだ。
何百万もするカメラを持っているので喧嘩になっても参加できないと言っていたのに。

「あっちのをなんとかしないと!」

近藤さんが反対側を指差して言う。
神宮寺さんは動けない。
まだ霊は男から出ていかないのか。
俺がなんとかするのか?
そう思っていたら近藤さんが「あ」と言った。
不思議な声のトーンに改めて反対側を見ると、男達の後ろに女性が立っていた。

「勧請院さん」

近藤さんの声にあれが勧請院さんであると気づく。
いつもの顔ではなく取り憑いた女の霊の顔をしているから一目で気づかなかった。

勧請院さんは修験者の1人の膝裏を膝カックンのように軽く蹴り、不意打ちで膝をついた修験者の頭を後ろから両手で掴んで上を向かせた。
そして自分も上から男と顔を覗き込んで目を合わせたのだろう。
修験者の体が大きく跳ねて絶叫を上げ始めた。
もう1人の修験者は自分が操る亡骸を勧請院さんに向かわせようと彼女を指差すが、複数人でないと強制力も弱いのか亡骸はモタモタと振り返っている。
そうこうしているうちに勧請院さんに何かをされていた男は力無く膝立ちのまま仰向けに倒れた。

勧請院さんは亡骸の男の胸ぐらを掴んで強引に投げ飛ばし、残った修験者の胸ぐらも掴んで壁に押し付けた。
そして今度は正面から男と目を合わせると、押さえつけられた修験者が絶叫を上げ始めた。

おそらく俺がヨリワラシの複合霊に魅せられたように、あの箱の中のイメージを見せつけられているのだろう。
あれだけの絶叫だから苦痛や苦しみも感じているかもしれない。
ここまで僅か数秒の出来事で、勧請院さんはあっという間に反対側の供身チームを無力化してしまった。

「よっしゃ」

神宮寺さんが軽快な声と共に立ち上がる。
見ると押さえつけていた男は力無く横たわっており、男に取り憑いていた複合霊はどこかへ逃げ去ったようだった。
腹を押さえて苦しむ修験者と、唯一無傷な修験者は負けを悟って逃げ去っていった。
また何か仕掛けてくるにしても、彼らを縛り付けておく道具もないし、無力化のために勧請院さんにいちいち頼むのも怖いので見逃した。

その後も何人もの供身の犠牲になった職員が現れたが、勧請院さんが加わったことで戦力的にはまるで脅威にはならなかった。

どんどん濃くなっていく天道の気配に気を引き締めながら、俺達はとうとう「祭儀処置室」と書いたプレートを掲げた部屋の前に辿り着いた。

続きます

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  • この記事を書いた人

やこう

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