目を覚ますと俺はまた病院にいた。
あの時と同じ病院のようだ。
病室に入ってきた斎藤さんが、俺の意識があるのを見て怯えた顔をしたあと、ベッドの側に来て「よかった……今、先生を呼んで来ますね」と言った。
医師の検診を受けしばらくボーッとしていると笠根さんが入ってきた。
「やあ前田さん、どうも」
そう言って笠根さんはベッド脇の椅子に腰かけた。
「無事……とは言えないけど、とりあえず元気そうでよかった」
さっきまでと服装が違う。
俺はつい今まで笠根さんのお寺にいたはずだが、まさかぶっ倒れたのだろうか。
「あの時のこと…覚えてます?」
笠根さんが横目で俺を見ながら聞いてきた。
「いや…全然」
あの時のこと……どの時だろうか。
「どこまで覚えてますか?」
「え…と…さっきまで笠根さんのお寺にいて…伊賀野さんが来てお母さんがやられた話を聞いて……」
笠根さんがため息をついたのがわかった。
「それで…伊賀野さんのお寺に移動しようとなったら雨戸が閉まって…伊賀野さんがここでやるかと……」
その先はどうなった?
思い出せない。
「……そこまでです」
と言った。
笠根さんの目は下の方を見ている。
眉間にしわを寄せて、何かを考えているようだ。
そしてぽつりぽつりと話し始めた。
「あの時、事務所の雨戸が閉まっていって、我々は寺から出られなくなりましたよね?そうしたら前田さんが倒れこんじゃって、ソファにね、グッタリしてた」
額にじわりと汗がにじむ。
冷たい汗だった。
「伊賀野さんの仕切りで本堂に移動して、前田さんはお弟子さん達が担いで、私と…タッキーは本堂に皆さんをお連れして伊賀野さん達の準備を手伝いました」
声がかすれる。
笠根さんは膝に両腕を乗せ手を組む姿勢になった。
「すぐに除霊が始まって、伊賀野さん達で前田さんを囲んで般若心経やら密教系の真言やらを唱えたんです。そしたら半ば意識がなかった前田さんが徐々にトランス状態に移行して、それはまあ通常の除霊と同様ですがね、しばらく読経が続いてました」
俺の脳裏にあの時の木崎美佳の姿が浮かんだ。
正座して不安定に揺れながら朦朧としている。
そして顔をグルリと回して、目がカメラを――。
「しばらくして気がついたら前田さんの髪がブワーって伸びてて、それこそ伊賀野さんが言ってたみたいにね、霊が前面に出てきた」
これ見ます?と言って笠根さんがスマホを取り出した。
映像を再生しているようだった。
周りに配慮して音量は落としているものの、そこに映されているのが何か、音ではっきりわかった。
笠根さんが椅子を寄せて近づきスマホを差し出す。
そこに記録されていたのは、まさに除霊の真っ最中の動画だった。
薄暗いお寺の本堂で伊賀野さん達が髪の長い人物を取り囲んで読経をしている。
これが俺、なのだろうか。
ボサボサの髪が正座した頭の高さから地面に垂れている。
髪の中からわずかに肩らしきものが見えている。
歌舞伎役者みたいだと思った。
スマホの画面でよくわからないが、長い黒髪の人物らしき影は大きく揺れながら唸っているようだ。
「んーーー!!!」
「むううううう!!!」
「んんーーー!!!」
言葉ではない。
呻き声。
周りでは読経の声が響いている。
画面全体が激しく揺れている。
撮影している笠根さんがスマホを持つ手が震えているのだろう。
手ブレが激しい画面の中でお堂の中を何かが飛び交っている。
時折画面の手前側から奥に向かって飛んだ何かが、壁にぶつかってガシャンと音を立てて落ちるのが見えた。
ポルターガイストみたいだ。
周りから物がバンバン飛んでくると言ってたっけ。
現実感が希薄な頭でそんなことをふと思った。
「…………しなさい………前田浩二の体に取り憑いた霊よ出て行きなさい………許しませんよ………ノウマクサンマンダ…………出て行き………今こそ……」
弟子達の読経に混じって伊賀野さんの声が聞こえる。
そしてライオン、だろうか、虎だろうか、大型の獣が唸るようなグルルルという唸り声が響いた。
「この声、わかりますか?すごいですよね獣みたいで」
笠根さんが言ってるのはこの獣のような唸り声のことだろう。
「これ、前田さんの声ですよ」
はあ?という顔を俺はしたのだろう。
「マジですよ。前田さん、低い声でむーむー言いながら同時にこの獣みたいな声で唸ってたんです。他にもヒヒヒとかケケケみたいな気持ち悪い笑い声も出してましたね。どうやってんのか知らないけど」
なんだそれ。
からかってんのか?
と思ったが笠根さんは真面目に話しているようだった。
不意に映像が終わった。
「すいません。身の危険を感じて避難したんです。そしたらもう撮影どころじゃなくて」
そう言ってスマホをポケットにしまう。
「伊賀野さんも凄かったですよ。お弟子さん達も。私、本山で何度か大掛かりな除霊に立ち会ってますし、私自身も除霊をした経験がある。その経験からしてもあの人達は凄かった。統率、連携、間の読み方や霊の状態を見極める力なんかも完璧。申し分ない内容でした」
「それで……無事に終わった……んですか?」
思わず口をついて出た。
結論が知りたかった。
笠根さんはフウーと息を吐き出して数秒沈黙したのち、言った。
「結論から言いますと」
ゆっくりと喋る。
「全滅、ですね」
「……………」
頭が働かない。
思考が完全に止まっていた。
笠根さんも何も言わない。
「ねえ、ちょっと!」
そう声がして不意にカーテンが引き開けられた。
現れたのは50代の主婦といった感じの人だった。
怒っているらしい。
「怖い話するなら外でしてくれる?そういうの嫌がる人だっているんだから!」
「え?……あ、ああ……すいません……」
笠根さんがそう言って立ち上がる。
おばさんは「んもー……」といななきを残して隣のベッドに戻っていった。
どうやら隣の爺さんの見舞客のようだ。
「前田さん、動けますか?」
そういえば俺はどこか怪我をしたのだろうか。
体には痛みはないし包帯や点滴の類もついていない。
「大丈夫です」
と言ってベットから降りる。
検査の時に着る服をそのまま着せられていた。
意識がない時に検査なんかをやったのだろうか。
「屋上でも行きますか」
そう言って笠根さんが歩き出した。
誰もいない屋上でフェンスに寄りかかるように立つ。
昼の日差しで満たされる街並みを見ていると先ほどの話が嘘のように感じられる。
あの映像も、笠根さんの話も、何もかもが嘘で実際は全て問題なく終わっているのだ、そんな無体なことを考えて馬鹿らしくなる。
「皆さん、無事なんですか?」
そう聞くと笠根さんは懐から煙草を取り出して火をつけた。
ここは病院ですよ、と突っ込む気にはなれなかった。
「伊賀野さんは集中治療室です。全身の血管がボロボロだそうで、あと少し救急車が遅れていたらヤバかったみたいです」
煙草の煙を吐き出しながら言う。
「お弟子さん2名とタッキーが死にました。他のお弟子さんは無事です」
死。
死んだのか?タッキーが?なんで?
「なんで……」と呻いた。
笠根さんは何でもないとでもいうような口振りで続ける。
「あいつ……滅茶苦茶ですわ。物がバンバン飛ぶのも地震みたいになるのも織り込み済みだったんですが、あそこまでとは……」
フウとため息をつく音が聞こえた。
「最終的に本堂が半壊しましてね。タッキーは崩れた柱やなんかの下敷きに。お弟子さん達はその前に鼻血出して口から血ぃ吐いて倒れてましたから、おそらく除霊の中で何かされたんでしょう。いずれにせよ3人とも救急車が到着した時点で既にダメでした」
そう言って黙る。
「じゃあ……俺は……」
その先は言葉にならなかった。
「残念ですが、まだです」
笠根さんはそう言ってまた煙草に火をつけた。
それきり言葉が出てこないまま、2人して昼の街並みを眺めていた。
「煙草…やめてたんですがねえ……」
フウーと長く煙を吐き出す音がかすかに聞こえた。
俺が目を覚ましたのは除霊の翌日だったらしい。
点滴がされていなかったのは、ただ単に眠っていただけだったからだ。
伊賀野トク子に続いて娘の和美もやられた。
もう伊賀野庵は無くなるかもしれないと笠根さんは言った。
そして「手を引きたい」とも。
「正直言って私にできることはもう何も見当たりません。いや、本山に連絡するくらいはできますが、それでも解決するかどうか、って感じです。それほど伊賀野さん達は凄かった。これ以上何かしても被害を増やすだけのような……ああ、すいません。前田さんに言うことじゃなかった。申し訳ない」
笠根さんと外の喫茶店に移動して窓際の席に座り、今後のことを話し合っている時にそう言われた。
「あ……いや……」
「わかってます。できる限りのことはします。それはお約束します。ですが、それ以上何かできるわけでもないのに前田さんの近くにいるのは、ただ危険に身を晒してるのと変わりませんから」
「いや……でも……」
言葉が出てこない。
何を考えたらいいのかわからなかった。
頭の中は真っ白だ。
と同時に真っ黒だ。
思考が渦を巻き、形になる前に違う思考に押し流される。
焦りや恐怖や期待や絶望が頭の中で荒れ狂っている。
そして後に残るのは絶望しかない。
終わりだ。何もかも。
お札や御守り、お寺に坊さんに霊媒師、全部ダメだった。
これ以上何を頼れというのか。
神社か?あの時、代々木八幡宮には行くことすらできなかった。
それはあの霊が神社を嫌がってるからか?
いやでもしかし……。
着地点を見つけられないまま思考が空回りする。
笠根さんに何か言わなければと顔を上げる。
が、何を言ったらいいのかわからない。
窓の外に目を向けようとした時、見てしまった。
笠根さんの後ろに座る女性。
離れた席に座っているが遮るものがないのでどんな人物なのかよくわかる。
こちらに向いて俯き加減で座っているその姿を見て「ひっ」と声を上げた。
「前田さん?」
木崎美佳だ。
なんで?なぜ木崎さんが?生きてる?客?いや何も飲んでない、じゃあなぜ?
なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?
「前田さん」
冷や汗が吹き出してくる。
呼吸ができない。
心臓の音が聞こえる。
うるさいぐらいだ。
「前田さん!」
突然手首を掴まれて飛び上がった。
「前田さん、無理だとは思いますがどうか落ち着いて。何か見えるんですか?」
笠根さんが厳しい顔をして俺を見ている。
笠根さんの向こうにいる木崎美佳を見る。
木崎美佳は俯いて動かない。
俺の視線を追って笠根さんも振り返る。
「何も見えません。誰もいません。前田さん、何が見えてるんですか?」
嘘だろ?そんな、木崎さんがそこに、見えない?見えないの?あなた見える人でしょ?じゃあそれは?そこにいるのは?
「前田さん!」
笠根さんが手首を強く揺すった。
「あ…あ…あ、あの…」
言葉が出ない。
笠根さんを見るもどうしても後ろの木崎美佳が気になってしまう。
「前田さん!何が見えるんです?」
「あ……き…木崎…さんが……」
笠根さんが手を引っ込める。
後ろを振り返ってキョロキョロしてからこちらに向き直る。
「何も見えません」
顔が真っ青だ。
口元に煙草を運ぶ手がかすかに震えている。
「前田さん、正直言ってもう手遅れだ。打つ手がないと言ってもいい」
なぜ、なんでそんなことを言うんだ。
「もうこうなったらあとは気の持ちようです。アレを抱えて生きて行くしかない。いつか必ず解決が見つかる。その日まで耐えるんです。できますね?」
いや無理でしょ。
死んじゃうよその前に。
適当なこと言うなよ。
「前田さん、あまり勧誘めいたことは言いたくないんですが、仏門に入って仏様のそばで生きてみませんか?そうすればもしかすると……」
「ああああああ!!!!」
思わず叫んでいた。
頭を抱えて机に突っ伏すようにして叫んだはずだっが、口から漏れたのはかすれたような呻きだけだった。
シューッ、シューッと規則的に空気が移動する音が聞こえる。
ピッ………ピッ………ピッ………と同じように規則的に電子音が鳴っている。
伊賀野さんは顔に酸素マスクをつけ、全身に点滴を受けている酷い有様だった。
集中治療室で治療を受けている伊賀野さんの傍に立つ。
顔を包帯でグルグル巻かれて痛々しい。
「…………」
俺の除霊でこうなった。
彼女にも因縁や動機があったのは間違いないが、それでもどうにも後ろめたい気持ちになってしまう。
退院する前にどうしても会っておきたくて斎藤さんに手を回してもらった。
伊賀野さんは眠っているようだったが、俺が入ってきたのに気づいて目を開けた。
シューッ……シューッ……という音に合わせて酸素マスクが曇る。
生きている。
酷い有様ではあったが、それでも伊賀野さんは生きている。
「すいませんでした。こんなことになって…」
なんと言えばいいのかわからず、どうにかそれだけ言葉にした。
「ま…えだ…さん」
伊賀野さんが何かをつぶやく。
口元に顔を寄せる。
「まえだ……さん……ごめ…なさ……わたし……しくじって……ごめ……」
伊賀野さんは泣かなかった。
悔しそうに顔をしかめて、謝罪の言葉さえ口にして、それでも伊賀野さんは涙を見せなかった。
強い人だ、と思った。
「大丈夫です。まだまだ諦めませんよ。なんとかしてみせますって」
そう言って無理やり笑ってみせる。
伊賀野さんが目を細めた。
「かの……」
何かを言っている。
再び顔を寄せる。
「かのう…こうめい…。いけ…すか…ないけど……ちからは……つよい……わたし……いじょうは……かのう……だけ……」
かのうこうめい。
かのうはおそらく嘉納、あるいは叶か。
そいつを頼れと言うことだろう。
「わかりました。かのうさんですね。連絡を取ってみます。大事にしていてください。必ず仇を討ってみせますよ」
グッとこぶしを握ってみせる。
伊賀野さんがまた目を細めた。
俺は集中治療室を出るまで口元に笑みを浮かべていた。
伊賀野さんから見えなくなったところで作り笑いを消す。
威勢のいいことを言ったが、俺はもう諦めに近い感覚を抱えていた。
斎藤さんの紹介から始まって、笠根さん、伊賀野さんと来てかのうこうめいで3人目だ。
紹介紹介で事態は全く良くなっていない。
むしろアレのヤバさが身にしみてわかっただけだ。
今のところ俺には大した怪我はない。
肩に泥を盛られ御守りを捨てられ自転車に跳ねられ腕を掴まれたぐらいだ。
そして今も木崎美佳が廊下の先で俺を見ているぐらいだ。
これ以上事態が悪くならないのであれば諦めるのも仕方ないかもしれない。
そう考えてはみるものの、事態が悪くならない保証などどこにもない。
むしろアレが俺を狙ってきたのである以上、邪魔者がいなくなれば今度こそ俺の命を奪いにくる可能性の方が高いだろう。
「…………」
一応、かのうこうめいに連絡してみるか。
ダメなら死のう。
「殺されるくらいならせめて自分で死んでやるわい」
木崎美佳の横を通り過ぎるとき、そう呟いてみた。
くっくっと木崎美佳の姿をしたソレが笑った。
「嘉納康明ですね。名前は聞いたことがあります」
病院の外で待ってくれていた笠根さんにかのうこうめいのことを聞いてみた。
笠根さんは黙って消えることなく待ってくれていた。
嘉納康明のことも知っているという。
「伊賀野さんから言われたんです。多分、そいつに頼れってことですよね」
んんーと笠根さんは唸った。
「正直、どこで名前を聞いたのか忘れたぐらいでして、詳しいことは何一つわからんですなあ」
スマホを取り出す。
嘉納康明で検索すると公式ブログが出てきた。
伊賀野トク子といい嘉納康明といい、霊媒師はホームページよりブログなのだろうか。
などとくだらないことを考えながら目的のものを探す。
あった。
見つけた電話番号をタップすると電話をかけるかどうかの確認が液晶に表示される。
迷うことなく電話をかける。
数コールしてあっさりと繋がった。
「はい。嘉納心霊研究所です」
電話に出たのは若い女性の声だった。
「あの、伊賀野さんの紹介でお電話をしたのですが嘉納…先生はいらっしゃいますでしょうか」
「はい。本日は事務所におりますが、どのようなご用件でしょうか?」
「ええと…私の…霊関係で…あの…伊賀野さんから紹介されまして……」
「はい、心霊関係のトラブルのご相談ですね?」
「え?…ええ、そうです。はい」
「そうしましたらその旨お伝えしてきますので少々お待ちください」
「あ、はい、お願いします」
当たり前なのだろうが、ものすごく手慣れている。
笠根さんに「つないでくれるみたいです」と伝える。
しばらくして保留の音楽が止み、男の声がスマホから聞こえてきた。
「もしもし、お電話代わりました。嘉納と申します」
低い声。
年齢までは判然としないが、結構なおっさんだろうと思った。
「あ、はじめまして。私、前田といいまして、伊賀野さんからご紹介をいただいて、お電話させていただいたのですが」
どうにもしどろもどろになってしまう。
緊張しているのだろうか。
「伊賀野さんというのは、伊賀野庵の伊賀野さん?」
「はい、そうです」
「娘さんのほうですよね?」
「そうです」
「ふむ。どんなご用件です?」
俺は簡単に今までの経緯を説明した。
先ほど伊賀野さんから嘉納を頼れと言われたところまで説明すると「なるほど」とため息をつかれた。
「伊賀野のお嬢さんがやられたとなると私でも危険ですなあ。あなたそんな厄介な霊に憑かれるなんて相当、悪いことをした?」
「いえ、ただビデオで見ただけなんです。本当です」
むう、と嘉納が呻くのが聞こえた。
「まあ勿論、こちらでなんとかしろというのであれば、伊賀野さんのこともあるし、なんとかしますがね」
明らかにやりたくないのが伝わってくる。
「とりあえず相談ということで、お待ちしておりますから、今日こちらにいらっしゃい」
「ああ、はい、ありがとうございます」
「勿論これは仕事として相談をお受けするということなので、相談料は規定の料金をいただくことになります。よろしいですな?」
「あ、はい……あの、おいくらでしょうか?」
「相談の場合は一律で20万円です」
「はい…ええ?……それって……」
「あなたこういう相談初めて?弁護士さんでも相談するのにお金かかるでしょう。私らの場合も同様ですよ」
「わ…かりました。20万ですね」
「はい。それではお待ちしております」
コンビニでお金を下ろして嘉納の心霊研究所へ向かう。
研究所という名の嘉納邸は渋谷から少し離れた高級住宅地の中にあった。
「うひゃー、こりゃ凄い」
嘉納の豪邸を見た笠根さんが間抜けな声を上げた。
嘉納心霊研究所と書かれた馬鹿でかい表札の横にある呼び鈴を押す。
インターフォン越しに先ほどと同じ女性の声が聞こえる。
先ほど電話した前田ですと名乗るとカチャリと音がして門扉が開いた。
門扉をくぐるとさらに10メートルほどの石畳があり、その先に屋敷がある。
屋敷の前まで行くとドアが開き、中から若い女性が出てきた。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
にこやかにそう言って中へ通される。
あまりにもステレオタイプな和風の大豪邸に面食らいつつ応接間へと通され、馬鹿でかいソファに座る。
女性が出て行くのと同時に大柄な和装の男性が部屋に入ってきた。
これが嘉納康明か。
笠根さんよりは背が低いものの、でっぷりと太って圧力が凄い。
肩まで伸ばした白髪混じりの髪をオールバックに撫で付け、眼力鋭くこちらを射抜くように見る目つきは、猛禽類か肉食獣のようだ。
海原雄山かよと心の中でつぶやいた。
「嘉納です。どうぞお座りください」
威厳たっぷりにそう言って嘉納は俺達の対面に腰を下ろした。
「前田です。よろしくお願いします。あ、これ相談料です」
支払いのタイミングがよくわからなかったので、持参した20万円を封筒のまま嘉納の前に置く。
嘉納は封筒を確認もせずに「はい、結構です」と言った。
そして俺は今まで何度もした説明をイチから嘉納に繰り返した。
笠根さんのスマホ動画も見せつつアレの正体を考察する。
今までと同じように質疑応答があり、それから嘉納の所感を聞く。
「まず、あなたに憑いているモノは極めて厄介で危険な霊ですな。伊賀野のお嬢さんは跳ねっ返りだが腕は確かだ。お母さんが亡くなったあと、私のところにも何度も来ましたよ。荒業も積んでノリにノッてる今なら霊媒師としての力は日本でも有数でしょうな」
嘉納は大きな目をさらにむき出して喋る。
「その伊賀野のお嬢さんが失敗したとなると、これは通常通りのやり方ではなんともならんでしょう。相当な覚悟と装備で臨まにゃならん。当然、報酬もそれなりになりますな」
「あの、全部でおいくらに……」
「着手金として1000万円、成功報酬としてさらに1000万円。実費は別途いただきます」
「はあ?……え…ええ?……」
「高いと思われますかな?私も命をかけて祓うんです。それで高いと思われるならご自分でなんとかなさったらいい」
そこから先は覚えていない。
どう考えても無理な金額で、俺は早々に諦めた。
親に頼ってもそんな金額持ってるはずないし、故郷も捨てて来たようなもんで頼れる親戚もいない。
いたとしてもあの貧しい町でどれほどの財産があるというのか。
もしも頼れる相手がいたとしても、霊媒師に払うから2000万貸してくれなどと言ったら、鼻で笑われるか説教されるのがオチだ。
昼下がりの道玄坂を渋谷駅方面へ。
笠根さんと別れた俺は、背中に木崎美佳をおぶって歩ている。
正確にはおぶってなどいない。
背中に感じる重さはないし、年頃の女性をおぶるために手を回しているドキドキなんかあるわけない。
そもそも手を回してもいない。
両手はポケットに突っ込んでいる。
ただ頭の後ろでクスクス笑う気持ちの悪いこの女を出来る限り無視するために周りの景色を一つ一つ目に焼き付けているだけだ。
頭は働かない。
感情も動かず心の中は驚くほど静かだ。
渋谷の街を歩きながら俺は、自分の命が2000万で消えるのかとぼんやり考えていた。