「先生からOKと言われました。先生が来るまで私がホンさんの相手をします」
相手をする、とはどういうことだろう。
ハオさんはスーツ姿のまま床にあぐらをかいて、クローゼットから出してきたアタッシュケースの中から何かを取り出して目の前に並べていく。
綺麗な刺繍の入った布を広げ、その上にお札、鈴、線香、蓋のついた線香立て、木彫りの飾りのようなもの、その他よくわからない物を並べて、胸の前で手を合わせた。
線香に火をつけて消し、煙をたなびかせる。
その線香を両手で持ち、お経のようなものを呟く。
しばらくそうしていると不意に部屋の中に気配が現れた。
ホンさん親子だ。
ホンさんは憮然とした表情でハオさんを見下ろしている。
女の子の表情は変わらない。
線香立ての蓋を開けると灰が中ほどまで入っていた。
そこに両手で持っていた線香を刺して立てる。
チリーン、と鈴を鳴らしてまた合唱する。
そうしてたっぷりと時間をかけてようやくホンさんへと顔を上げる。
「◯◯、◯△△◯◯□」
ハオさんがホンさんに語りかける。
表情は穏やかで、言葉にも諭すような響きが含まれている。
「□□!?」
対してホンさんはいきなり怒りのスイッチが入ったのか、強い口調で応える。
ハオさんは何を言ったのだろうか。
やはり見過ごせないので退治します、みたいなことだろうか。
ホンさんがハオさんの胸ぐらを掴んで引き上げる。
ハオさんは一瞬苦しそうに顔を歪め、ホンさんの顔の前でチリーンと右手に持った鈴を鳴らした。
ホンさんが怪訝な顔で鈴を見る。
再びチリーンと音が鳴る。
ハオさんは左手の人差し指と中指を伸ばして他の指はグーの形に握り、印を結んでホンさんの目の前に何か字を書くような動作をする。
そして何事かを呟く。
すると力が抜けたようにホンさんの手が離れた。
ホンさんは驚いた表情で手とハオさんを見比べている。
ハオさんは立ったまま印を結んでお経のようなものを唱えている。
ホンさんはそのまま警戒するようにハオさんを睨みつけている。
「面白いわね。あれ多分、梵字か何かを空中に書いてるんだ」
隣に来て伊賀野さんが囁く。
儀式を見逃すまいと目はハオさん達から離さないで、俺だけに聞こえるよう声を絞って感想を述べる伊賀野さん。
俺も同じように応える。
「たしかに。映画のようにババーンとはならないみたいですが、しっかり効果はあるようだ。我々とは除霊のやり方がまったく違いますね」
ハオさんが床に広げた布の上から札を取り上げてホンさんの胸に当てる。
それだけでホンさんは力が抜けたように蹲る。
蹲った拍子に剥がれた札を拾い上げ、今度はホンさんの額に札を当てる。
「□□△!◯◯△◯□□!!」
ホンさんが何事かを喚く。
蹲って動けないでいるようだ。
女の子がホンさんの隣でハオさんを責めるように見上げている。
ホンさんを虐めることに抗議しているのだ。
ハオさんはそのままお経を唱えている。
不意にお経が止まり、ハオさんが声をかけてくる。
「カサネさん、すいませんが椅子を持ってきてくれますか?このまま先生が来るまで待ちます」
なんと、もう終わってしまったのか。
「ああ、はい、ちょっと待って」
そう言って壁際に寄せていた背もたれ付きの椅子をハオさんの後ろに持っていく。
ハオさんはお経を唱えながら腰を下ろす。
「ふーっ!ふーっ!ふぅーっ!!」
ホンさんが息も荒くもがいている。
何をしているのか知らないが、ハオさんがかけた捕縛のようなものを解こうとしているのだ。
ハオさんはチリーンと鈴を鳴らしてお経を続ける。
お経と札と鈴でホンさんを捕らえた。
この後どうするのか気になるところだが、このまま先生を待つということはしばらくは事態は動かなくなったのだろう。
「いやあ見事なもんですな。雪村君、お茶を買ってきてくれる?ハオさんはウーロン茶で?」
ハオさんはお経を唱えながら頷いた。
雪村君が足早に部屋を出て行く。
リーさんはどうしているかというとホンさんに打ちのめされて気絶し、ベッドに寝かされている。
こちらもしばらくは起きないだろう。
「ううー!!うううーー!!!」
ホンさんがもがいているのが少し怖いが、とりあえずは待機だ。
そう思った時に、ソレが起こった。
「笠根さん!」
突然伊賀野さんが叫んだ。
伊賀野さんの方を振り向くと目の前に女が立っていた。
「うわっ!」
思わず情けない声を上げて後ずさる。
なんの前触れもなく、誰に気づかれることもなく部屋の中に現れたのは、女の霊だった。
人であるはずがないのは一目瞭然だった。
顔も体も所々殴打の影響でドス黒く腫れ、紺色のワンピースがボロボロに破れている。髪はボサボサに乱れて、ハサミで乱切りにされたように髪の毛の長さも滅茶苦茶だ。
そして何より、喉元を真っ直ぐ横に走る赤い線から血がドクドクと溢れ出ている。
虚ろな目を前方に向けているが俺を見てはいない。
頭を前後左右デタラメに細かく揺らしながら、半開きの口から「あ゙っ…あ゙っ…」という声とも呼吸ともつかない音が漏れてくる。
異様だ。
まったく人の理性の気配がない、気が狂った様子の女の霊が、そこにいた。
ハオさんが驚きの目を女に向ける。
「うおおおおお!!!!」
ホンさんが咆哮とともにハオさんに体当たりを食らわして立ち上がる。
女の霊は動かない。
ただ頭を揺らして「あ゙っ…あ゙っ…」という音を漏らすのみだ。
ハオさんが立ち上がり再び左手で印を結んでホンさんに向ける。
「△△!」
ホンさんが両手を前に突き出して何事かを叫ぶ。
どうやら「待て」と言っているようだ。
そしてホンさんは女の霊を見て話しかける。
それはホンさんらしくない、苦痛に満ちた、哀願するような口調だった。
「◯◯□……□◯□□……」
そしてホンさんは首を振り、隣にいた女の子を抱き上げて揺らめくように消えた。
「△△!」
ハオさんが叫ぶ。
おそらくホンさんに「待て!」と言ったのだろう。
ホンさんの行方が知れないと分かると、ハオさんは立ち尽くす女の霊に向き合った。
左手の印を女の霊に向け、再び梵字を書き付ける動作をする。
女の霊は動かない。
ハオさんはチリーンと鈴を鳴らしてお経を唱える。
その声と女の霊が漏らす音のみが部屋に満ちる。
「あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…」
異様な光景だった。
スーツ姿でお経を唱えるハオさんは見ようによっては滑稽だが、相対している女の霊の異常さがそんなギャップを完全に吹き飛ばしていた。
「あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…あ゙っ…」
女の霊は動かない。
ただ立ち尽くし、「あ゙っ」に合わせて頭を小刻みに振っている。
喉元から溢れ出した血が床に血溜まりを作っている。
「ねえ、アレ、やばいよ?」
隣に来ていた伊賀野さんが声をかけてくる。
「ホンさんはきっとハオさんじゃなくてあの女から逃げたのよ。完全に狂っちゃってる。ああいうのは私の知る限り最悪の状態」
狂ってる。
対話も除霊も不可能。
無理やり成仏させるか消し去るしかないということか。
ハオさんはどうにかできるのだろうか。
ハオさんはお経を唱えながら時折鈴を鳴らし、左手で印を結んで梵字を空中に書き付ける。
数分、だろうか、それとも数秒だろうか。
異様な光景に目を奪われていると、不意に女の霊が歩き出した。
ゆっくりと、大きな歩幅で一歩。
ハオさんではなく、ベッドに横たわるリーさんの方へ。
一歩、そしてもう一歩と、女の霊は体を横にふらつかせながら、ベッドに近づいていく。
ハオさんは女の霊へ向かってお経を唱えながら後を追う。
それほど広い部屋ではない。
あと数歩も歩けば女の霊はベッドにたどり着くだろう。
女はリーさんをどうするつもりだろうか。
おおよそ察しはつく。
話の流れからして、あの女の霊は先に殺されたホンさんの奥さんだろう。
リーさん達が誘拐し、あんな風になるまで拷問して殺したのだ。
あの屈強で、怨霊にしては冷静なホンさんですら、おそらくは恐れて逃げ出したほどの悪霊。
一体どれほどの怨念を抱えて存在しているのだろう。
祓ったり消し去るなんてできるのか?
女の霊はお経を唱えるハオさんを気にかける風もなくリーさんに近づいて行く。
そしてとうとうベッドにたどり着く。
女の霊は「あ゙っ…あ゙っ…」と音を漏らしつつ頭を振りながら、首をほぼ垂直に折ってリーさんを覗き込む。
「…うううぅう…!…んんんむぅう…!!」
寝たままのリーさんが苦しそうに呻き声をあげる。
ビクンと体が跳ね、のたうつように身をよじる。
激しくせき込み、ゴボリと口から血が溢れた。
「□□!」
ハオさんが女の霊の背中に札を当てる。
「馬鹿!だめよ!」
伊賀野さんが叫ぶ。
女の霊の首がゆっくりとハオさんに振りかえる。
女の霊がハオさんを見ると、先ほどとは逆にハオさんが崩れ落ちた。
気を失ったのか、ハオさんはそのまま床に倒れ伏した。
「あんなのに気軽に触れちゃうなんて……!」
伊賀野さんが吐き捨てるように呟きながら鞄から数珠を取り出す。
「笠根さんも一緒に!不動明王の真言わかるでしょ?」
「はい!いつでもどうぞ」
俺も胸のポケットにしまっていた数珠を取り出す。
二人同時に並んで正座し、手を合わせて不動明王の御真言を唱える。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
頼むからどこかへ行ってくれと祈りながら御真言を3回続けて唱える。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
伊賀野さんも同様だろう。
とてもじゃないが何の準備もなしに祓える相手じゃない。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
女の霊を見る。
女の霊はまたリーさんをのぞき込んでいる。
リーさんは苦しそうに身をよじっている。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
再び目をつぶって御真言を唱える。
こうなったらもうどうにかなるまで御真言を唱え続けるしかない。
俺達にどうにかできない以上、不動明王様にお願いするしかない。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
リーさんの呻く声が聞こえなくなる。
死んだのだろうかと思って目を開けてリーさんの方を見る。
と、女の霊が俺達を見ていた。
視点こそあっていないものの、首だけを回してうつろな目を俺達の方へ向けている。
おそらく声だったのだろう「あ゙っ…あ゙っ…」という音は聞こえない。
女の霊は黙って俺達を見ている。
全身に怖気が走り背中に鳥肌が立つ。
伊賀野さんも気づいたようで息をのんでいる。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
声を大きくして御真言を唱えると、伊賀野さんもあわせて唱える。
やばいやばいやばい。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
女の霊がゆっくりと俺達の方へ向き直る。
来るな来るな来るな来るな!
どこかへ行っちまえ!
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン!」
と、その時ピンポーンと部屋のチャイムが鳴った。
そして間を置かずドアが開いて雪村君が入ってきた。
チャイムの音に驚いて御真言を止めてしまった俺達は雪村君を見て、同時にはっとして女の霊に目を戻す。
そこに女の霊の姿はなかった。