山に入れなくなった話朗読バージョン

山に入れなくなった話【朗読用】  第10話

投稿日:2021年8月29日 更新日:

時刻は23時になろうとしている。
周りは暗く人の気配はない。
昼間は賑わっているであろう土産物屋も全て閉まっている。
高尾山の山道入り口まで車で入り込み、高尾山薬王院たかおさんやくおういんという石碑が立っている道を車で進む。
一般車両進入禁止の看板があったが、笠根さんに無理を言って侵入してもらった。
車で行ける限界まで進み、車を降りる。
後は徒歩で登っていくしかない。
高尾山に向かう道中で調べたのだが、高尾山には登山道がいくつかあり、登山道によって難易度が全然違うらしく、もっとも険しい道はまるっきり山道で、もっとも楽な道はある程度は車で、さらにケーブルカーやリフトなんかも使えるらしい。
当然今は動いていないし、山頂に行くのが目的ではないので使う必要もない。
ある程度まで登れればいいのだ。

車を降りて山頂の方へ顔を向ける。
「前田さん、本当に山に入るんですか?」
笠根さんが聞いてくる。
事前に何をするつもりかは話してある。
考えを変えるつもりもない。
「はい。ここまでありがとうございました。後は俺一人で行きます」
笠根さんがタバコに火をつけフウーと煙を吐き出す。
「私も行きます、と言いたいところですが、どうやら無理のようです」
そう言って俺をまっすぐ見つめる。
なんだまたビビってるのか?
「後ろ、見えますか?」
そう言われて振り返る。
木崎美佳がいるのかと思ったが何もいなかった。
「見えない…ですね。何か見えるんですか?」
「あの時と同じですね。前田さんには見えていない。私にはしっかり見えてますよ。病院にいたのと同じ、狐が」
狐か。
どうやら間違っちゃいないらしい。
笠根さんに向き直る。
「今まで本当にありがとうございました。これで何がどうなるのか全然わかりませんけど、行くだけ行ってみます」
そう言って頭を下げる。
心には恐れが渦巻いているが、不思議と穏やかに言葉が出てきた。
笠根さんはタバコを携帯灰皿に押し込んで揉み消し、まっすぐ俺の目を見た。
「前田さん、必ず戻ってきてくださいよ」
その目は悲しいようで、申し訳なさそうで、どうにもやりきれない笠根さんの心が現れているようだった。

その時、車のヘッドライトが灯った。
エンジンを切っていたはずでヘッドライトはもちろん消えていたはずだ。
そのヘッドライトがついては消え、またついては消える。
不規則に明滅を繰り返すヘッドライトの様子に俺も笠根さんも一瞬言葉が出ない。
数舜して笠根さんが声を張り上げた。
「前田さん!行ってください。おそらくアレが何かするつもりなんでしょう。ここは私がなんとかしますから、前田さんは自分のするべきことをやってください」
そう言って車に向かって歩き出す。
その後ろ姿に恐れは感じられない。
笠根さんが両手を前に突き出して印を結んでいる。
阿毘羅吽欠アビラウンケン……南無なむ大師だいし遍照へんしょう金剛こんごう……」
お経を唱えながら車に近づいて行く。
車がバン!と跳ね上がる。
数十センチ飛び上がりズンと音を立てて着地する。
「前田さん!行ってください!」
笠根さんが再度叫ぶ。
その声に頭を下げて振り返り、山の中へと走る。
山道を外れて木々の中へ。
途端に急勾配に足を取られて転げ落ち、止まったところですぐさま起き上がりまた走る。
すでに笠根さんの声は聞こえない。
周りには光は見えず完全に闇の中だ。
どの方向でも構わない。
我武者羅がむしゃらに枝をかき分け進む。

どれだけ走っただろうか。
遥か後方から木々が軋み枝が弾ける音が聞こえる。
アレが追ってきているのだ。
笠根さんはやられてしまったのだろうか。
無事でいてくれることを願いながらとにかく進む。
また崖に行き当たって、転がり落ちる。
身体中が擦り傷やら刺し傷だらけで血も出ているようだ。
それでも進む。
いつか終わりが現れる場所まで止まることだけはしない。
今アレに捕まったら今度こそ最後だ。
それだけはわかる。
自分の息づかいと、木々をかき分け枝を踏みしめる音、アレが木々をなぎ倒しながら迫ってくる音、轟々と周りで鳴り響く風だかなんだかよくわからない音、それらに混じって「……おーい……」と呼ぶ声が聞こえる。
間違ってない。
このまま進めば…………。

不意に耳元で「おい」という男の声が聞こえて飛び上がった。
そして何度目かわからない急勾配を転げ落ちて、起き上がろうと目を上げると、周りの木々の様子が何やら違って見えた。
いや、同じように山の暗闇の中なのだが、何かが違う。
木々の生え方が今まで走ってきた場所と少し変わっている気がする。
はあ、はあ、と自分の呼吸しか聞こえない。
アレが迫ってくる音も聞こえない。
静寂だ。
真っ暗な静寂の中で目を凝らす。
パキッと枝を踏む音がして振り返ると、目の前に赤い着物を着た女の人が立っていた。

「……あ……あ……うう……」
幼い頃に経験した悪夢。
トラウマが蘇って全身が震える。
汗だくだったのに寒い。
それまでとは違う汗が吹き出してくる。
背中がぐっしょりと濡れて服が張り付く。
流石に今度は漏らしたりはしなかったが、それでも恐怖で叫び出す寸前で硬直していた。

クスクス クスクスクス

笑っている。
あの時と同じように口元に手をやりクスクスと笑う。
狐目は俺を見据えて動かない。

「取って食べよか」
クスクス
「親御の元に戻そうか」
クスクスクスクス

歌うようにそう言って笑う。

クスクス
クスクスクス

「汚いわらしが泣いておる」
クスクス
「おお、憐れ憐れ」
クスクスクスクス

「あ……あの……」
言葉が出てこない。
目の前の存在に完全に怖気付いていた。
入っちゃいけないと言われていた山に自ら入ったのだ。
あの時も、今も。
山に入ったからこの神様の手が届いてしまった。
今度こそ食われるだろう。
「あの……あ…あの……」
まさに口を開けた蛇を前にしたカエルだ。
飲み込まれるのを待つだけの死に体。

「おお汚い、汚い汚い」
クスクス
顔を背けて眉間に皺を寄せて笑う。
その目は俺から離れない。
「おいしくなさそう」
クスクス クスクスクスクス

どくん、と体の中で何かが大きく脈打つのがわかった。

同時に激しい吐き気と頭痛。
ものすごい嘔吐感に襲われ、たまらず吐き出す。
血だ。
大量の血液が口から噴水のように吹き出した。
酒だけを飲み続けた時のように、勢いよく血が喉奥から吹き出してきた。

「おお、汚い汚い」
クスクス
「いやだいやだ」
クスクスクスクス
口元の手を少し引き上げて身をすくめる。
しばらくそうして俺を見ていたのち、また「取って食べよか」と言って笑った。
ようやく血を吐き終えた俺はひざまずいて手をついた。
「親御の元に戻そうか」
言わなければならない。
「取って食べよか」
クスクス
今日は自分の意思で会いにきたのだ。
「親御の元に戻そうか」
クスクスクスクス
「……食べてください」
そう言って頭を下げる。
「取って食べよか」
「…はい。お願いします。食べてください」
「親御の元に戻そうか」
「悪い霊に取り憑かれたんです。もう生きてはいられないでしょう」
「取って食べよか」
「であれば最初にお会いしたあなたに、貴方様に食べていただきたい」
「親御の元に戻そうか」
「あんなくそったれに殺されるぐらいなら!」
「取って食べよか」
「望むところだ!ひと思いに食ってくれ!!」

「ほおら、取れた」

…………

…………え?

何と言われたのだろう。
頭が追いつかない。
しかし何だこれは。
体が、苦しさが、吐き気が、ない。

クスクス クスクスクスクス

顔を上げて女の人を見る。
赤い着物の女の人は変わらず口元に手をあてて笑っている。

「おお、汚い汚い」
クスクスクスクス

右手を口元に当て、左手に黒い何かをぶら下げている。
その手に握られた何かがモゾモゾと動いている。
そして途端にそれが大きくのたうつように暴れ始めた。
人のようだ。
あれは黒い髪の人、のようなモノだ。
見覚えがあった。
笠根さんのスマホで見た映像に映っていた、除霊中の俺の姿。
霊が前面に出てきたと言っていたから、おそらくあの長い髪が本来の姿なのだろうソレを、赤い着物の女の人が左手にぶら下げていた。
首を後ろから鷲掴みにする格好だ。

ソレは激しく暴れ、女の人の手から逃れようとしているようだった。
グルルルと獣のような唸り声をあげ、同時に「あああ」「オオオン」「ギギギッ!ギギギギィ!」と不快な声で叫んでいる。
思っていたよりもソレは小さく、人間なら子供くらいの大きさだった。
対して女の人は大人の俺と比較してもやや大きい。
体格はまさに大人と子供だった。
「取ったら食べよか」
クスクス
女の人がソレの首を持ったまま左手を持ち上げる。
「おいしくなさそう」
クスクスクスクス

女の人が右手で激しく暴れるソレの片手を掴み、肩に噛み付いた。
ボリッと音が聞こえた。
「ギイィィオおオおぉ!!!!!」
続いてソレの絶叫が響いた。
この世のものとは思えない凄まじい叫び声が木々の暗闇に飲み込まれていく。
女の人は口元を真っ赤にして口をもぐもぐと動かしている。
続いて右手に持っていたソレの片手の残りを一息に口の中に放り込んだ。
口が異様に大きく開き、子供サイズの片腕がすっぽりと口の中に収まった。
ゴリッボキッと骨ごと咀嚼する音が聞こえてくる。
左手に悶え苦しむソレを捕まえたまま、ゆっくりと咀嚼を終えてゴクリと飲み込んだ。
2メートルは離れているのに、飲み込む音が聞こえるかのように、女の人の喉がごっくんと動いたのが見えた。
続いて女の人はソレの片足をつまんで伸ばし、太ももの付け根に齧り付いた。
再びゴキッボギボギボギ!と嫌な音がして、女の人の右手につままれたソレの片足がだらんと垂れ下がった。
再び響く絶叫。
続いて足の残りを食べ終えた女の人は、同じように残った片腕片足と順番に齧り付き、両手足を失ったソレが息絶え絶えにピクピク動いてる状態のまま両手で持って、今度は横から腹に齧り付いた。
ビクンと大きく動いてソレは動きを止めた。
しばらくピクピクしていたが、やがてそれもなくなった。
絶命したのだ。
もはや動かなくなった肉塊を女の人がゆっくり時間をかけて食べ終えるまで、俺はその場から動けなかった。
目をそらすこともできなかった。
俺を散々苦しめてきたアレがこうして食われて死んだ。
俺はようやくアレから解放されたのだ。
そして今、ソレを食べ終えようとしているこの神様は、次は俺を食うだろうか。
あんな食べ方を、殺され方を、するのだろうか。
そしてかつて一緒に山に入って帰ってこなかったAとBは、こんな風に生きたまま食べられたのだろうか。
恐れが全身を貫いて体を地面に縫い止めていた。
もうこの状況でどうにかすることは考えられなかった。
跪いたままの格好で、俺は女の人を見上げ、静かにその光景を見ていた。

口元を拭った女の人は俺に目を向け笑った。
「取って食べよか」
クスクス
顔こそ血をぬぐって綺麗になっていたが、ニイッとむき出した歯は血で真っ赤に濡れていた。
「親御の元に戻そうか」
クスクスクスクス
そう歌うように笑いながらゆっくり近づいてくる。
「……………」
食べてくれと言ったのだから食べられるに違いない。
「取って食べよか」
しかしこの歌には選択肢がある。
「親御の元に戻そうか」
もしも頼んだら……あの時のように……
「取って食べよか」
俺は跪いたまま頭を地面にこすりつけた。
「お願いします……」
「親御の元に戻そうか」
「助けてください」
「取って食べよか」
「お願いします……帰してください……」
「親御の元に戻そうか」
「お願いします!帰してください!!」

それきり女の人は歌うような言葉を続けずクスクスと笑うだけになった。
「…………」
考えているのだろうか。
俺を帰すかどうか。
考えてる?この狂った神様が?
「あらあ。狂ってるとは心外だねえ」
クスクスクスクス
「っ!——し、失礼しました!」
なんと、思わず口から考えが漏れたか。
いや、頭の中を読まれたのか。
しかし、この神様が初めてまともに喋った。
「まあいいさ」
クスクス
神様は相変わらず楽しそうにクスクス笑っている。
「また会いにおいでえな」
クスクスクスクス
「今度はちゃあんと食べるからさ」
クスクスクスクス

そう言って神様は暗闇に溶けるように消えてしまった。
ザアッと風が渦を巻いて木々を震わせる。
木々の揺れが収まった時、また周囲に生える木の種類が変わっていた。
先ほどまでの原生林とは違う感じの、ここは……高尾山だ。
とするとさっきまでいたのは……。

ヴヴヴとポケットの中でスマホが振動した。
あれほど転げ回ったのに壊れずに済んでいたらしい。
スマホを取り出すと深夜0時を回っていた。
笠根さんと別れてから1時間経っていない。
スマホには笠根さんからのLINEメッセージが表示されている。
《車の場所で待っています》
その場所に戻れる自信がなかったので笠根さんに電話をかける。
ワンコールで繋がった。
「前田さん?無事ですか?」
緊張して早口に喋る笠根さんの声がひどく嬉しい。
「笠根さん……終わりましたよ……全部……アイツはもういません」
思わず笑顔になる。
変な笑い声になってしまいそうだ。
「早く話したいんで、迎えに来てくれませんか?ここがどこだかわからなくて」
「前田さん!?終わったって…ええ?……今…今、どこです?どこにいるんですか?」
「だから……へへ……終わったんですよ。解決です。それとここがどこかわからないんで、助けていただきたいんですが」
はああ〜と笠根さんが大きく息を吐くのが聞こえる。
「前田さん…前田さん!…あなた……生きてるんですね?」
涙声になっている。
笠根さんの心が伝わってきてニンマリしてしまう。
「ええ、生きてますよ。傷だらけであちこち痛いし、ここがどこかわからなくて遭難中ですが、生きてます」
「ああ……」
グズグズッと鼻をすする音が聞こえる。
しばらく黙った後、
「良かった、前田さん、とにかく今から迎えに行きますので、スマホで現在地をマップに表示して、その情報を送ってくれますか?」
おおう、その手があったか。
スマホって便利だよね。
ここは高尾山だ。
都内だ。
山の中といえど電波はバリバリ入っている。

それから笠根さんに現在位置を送って、木に背中を預けて座り込む。
目の前には暗闇が広がっている。
しかし恐れは感じなかった。
凄まじい恐怖が終わったのだ。
しかも子供の頃に植え付けられたトラウマは新たなトラウマで上書きされた。
もしまた山に入れば今度こそあの神様に喰われるかもしれない。
しかし今は大丈夫だろう。
見逃してもらった直後なら、またさらわれることもないはずだ。

遠くに懐中電灯のライトが見える。
子供の頃に騙された光とは違って、こちらへ向かって来るのに四苦八苦してるのがわかる。
笠根さんに呼びかける。
「おーい!……ここにいますよー!……」
そう言ってスマホを光らせて振る。
「前田さーん!……もうちょっとでーす!……」
笠根さんが近づいて来るごとに嬉しさがこみ上げて来る。
人の良い坊さんに今度何かご馳走しないとな。
タッキーやお弟子さん達の墓にお礼に行って、伊賀野さんのお見舞いに行って、嘉納康明に嫌味の手紙を書こう。
自力で解決しましたってね。
まあ全然自力じゃないけども。

「前田さん!」
懐中電灯で顔を照らされ、視界が真っ白になる。
すぐに光がそらされ、笠根さんが目の前に飛び出てきた。
「笠根さん、どうも」
座ったまま手を上げて応える。
立ち上がろうとして、足腰に力が入らないことに気づいた。
「すいません。立てません。力尽きました」
そういうと笠根さんが手を差し出してきた。
笠根さんの肩を借りて車に戻る。
ヨタヨタしながらだったので3時間近くかかってようやく車に戻った頃には笠根さんもヘトヘトになっていた。
運転席と助手席に乗り込んでしばらく息を整える。
ここまで戻る間に笠根さんには事の顛末を全て詳細に話し終えていたし、俺達に出来る限りの考察をしてみたのだが、未だにわからないことは多かった。

あの霊はなんだったのか。
なぜ俺に憑いたのか。
あの神様はなんだったのか。
なぜ俺を助けたのか。

考えてもわかるはずもない疑問は脇に置いて、今は少しだけ眠ろう。
夜が明ければ病院に行って、会社にお詫びの連絡をして、それからのことはその時に考えよう。

服は血だらけで気持ち悪かったが、それでも疲労に身を委ねる心地よさに、俺は目を閉じた。

  • この記事を書いた人

やこう

ご乗車ありがとうございます。 車掌は怪談や奇談、洒落怖、ホラーなど、『怖いモノ』をジャンル問わず収集しているオカルトマニアです。 皆様も「この世発、あの世行き」の夜の寝台特急の旅をごゆっくりお楽しみください。

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