子供の頃、俺・前田浩二は山で遭難したことがあった。
俺の地元は結構な田舎で小学校は人数が少なく、同学年は2、3人しかいない。
1~6年生全て合わせても20人ちょっとという有様で、それなりの校舎はあるものの全生徒が1つの教室で授業を受け、他の教室は無用の長物という扱いだった。
教室は1つで先生も1人。
まあ見事に過疎った町だったわけだが、当時の俺にはそれが普通でその町が世界の全てだった。
その日、俺は友達のAとBを連れて山に入ってみることにした。
普段から山には入るな、山に入るとモノノケに食われるぞ~と大人達から言い聞かせられており、俺達はそれを面白がってちょくちょく山に入っては木の枝を拾って来たり食べられないキノコを採ったりして遊んでいた。
AとBは学年的には1つ下だったが、毎日同じ教室で授業を受けている親友だった。
俺の同学年は女子しかいなかったので、俺の遊び友達は必然的にAとBだったわけだ。
Aは俺よりも態度がでかい奴で、どちらかといえば俺よりもAの方がガキ大将だった。
そんなAが山に行こうと言い出した。
俺もBも山は大人にバレたらまずい遊び場としか考えていなかったので賛成した。
それで俺達は放課後に一旦家に帰り、自転車に乗って再び集合した。
言い出しっぺはAだが、一応年長者の体裁を保つため「行くで」と言って自転車を漕ぎ始めると2人はついてきた。
立ち漕ぎで自転車を漕いで30分ほどで山に到着する。
今にして思えばよく30分も自転車を飛ばし続けられたものだ。
山へは県道から外れたポイントに自転車を停めて獣道を入って行く。
山に入るというだけで俺達にとっては充分な冒険だったので深入りしたことはなかった。
せいぜい県道から数分の距離まで入り込みしばらく遊ぶ。
大きな枝を集めて秘密基地を作り、その中に入って拾ってきたエロ本を見たり、家からくすねてきた親のタバコをふかしたりするのがいつもの遊びだった。
その場にいることが楽しいわけで、本格的な山の探索などしたことはなかった。
人の手が入っていない原生林は木の立ち方もバラバラで地面には太い根がうねっている。
俺もAも子供心にここで無茶をするとヤバイとわかっていたのだ。
その日もそれで終わるはずだった。
ふいにBが、あっと声をあげた。
「見て!あれ!!」
Bが指差した方向を見るも何もない。
「なんや」とAが問い返す。
「あそこあそこ!右にグニャッと曲がった木の根元のとこや、ウサギ!」
目をやると根元から右に大きく反り返った盆栽みたいな形の木が生えており、その根元から数メートルの位置にウサギがいた。
ウサギは食べ物を探すように耳をヒクヒクさせながら地面を漁っている。
「しーっ、逃げへんように……」
Aが小さな声で言いながら俺とBを手で制し、ソロリソロリと木の陰に隠れながらウサギに近づいていく。
ウサギまでは20メートルの距離。
枝を踏んでかすかな音を立ててもウサギは耳をピクッとさせてあたりを見回す。
俺達は木の陰に隠れて息を殺し、しばらくそのまま動かない。
しばらくして顔を出してウサギを確認するとその場から動かずまだ地面を漁っていた。
そんなこんなでじっくり10分以上かけて近寄っていった。
ウサギまではもうあと5メートル。
3人で飛び出せば捕まえられそうな気がしていた。
「せーの…」
Aが囁いた、そして一呼吸置いて「せっ!」という掛け声とともに飛び出した。
俺とBも一瞬遅れて飛び出す。
ウサギはビクッとしてこちらを見て、目にも止まらぬ速さで飛び退った。
飛び退いた方にちょうどAが走っており、そのまま全力でウサギを追いかけている。
ウサギは素早く、小学生の足で捕らえきれるものではなかった。
3人とも50メートルほど夢中で追いかけたが、ウサギの姿どころか逃げていく音すら聞こえなくなり立ち止まった。
3人とも土の上に座り込んで荒い息をしていた。
木の根がうねっている凸凹の山道を全力で走るのは相当しんどかった。
転ばずに駆けていたのはAだけで俺もBも転んで膝や手を擦りむいていた。
「あかんかー」
とAがつぶやいてから「帰ろか」と言った。
立ち上がって元来た方へ戻ろうとするが、方角がわからない。
ウサギに全神経を集中して夢中で走ったために方向感覚はまるで狂ってしまっていた。
どこを向いても見えるのは木とうねる根っこだけ。
俺達はあっけなく遭難してしまった。
途方にくれてあてどもなく歩いた。
ウサギを追って来たのはせいぜい50メートルほど。
方向を決めて50メートルほど歩き、元いた場所に戻れなければ50メートル戻ってまた別の方向へ50メートル行ってみる、というやり方を試してみたが、これがまずかった。
山の中の風景は見る場所や角度によってまるで違って見えた。
目印にしていた大きな根っこや岩などは、少し場所を変えるともう見えなくなった。
ヤバイヤバイヤバイ……。
俺はそれだけ考えながらひたすら県道を探して歩いていた。
AもBも最初は気を張っていたが、だんだんと静かになり、やがて俺達は無言で座り込んでしまった。
木の根に腰を下ろして考える。
しかしいくら考えても、この状況を切り抜ける案は思いつかなかった。
ど田舎の小学生が携帯なんて持っているはずもなく、親に連絡を取る手段もない。
どの方向へ進めばよいのかさっぱりわからない。
秘密基地さえ見つけられれば帰りの方角はわかるのに。
あてどもなくさまよったせいで元いた場所すらわからなくなった。
遭難、家出、行方不明。
様々な単語が頭に浮かんでは消えていく。
不安に押しつぶされた俺達をあざ笑うかのように雨が降り始めた。
夏だったので最初は雨なんか気にしなかったが、濡れるのは嫌だったので大きな木のうろに入って雨をしのいだ。
百足など様々な虫がいて気持ち悪かったが濡れるよりはマシだった。
雨脚はどんどん強くなり、降り出してから数分後には豪雨となった。
俺達は体を寄せ合い震えていた。
夏が近いはずなのに驚くほど寒い。
濡れた服が体温を奪ったのだと今ならわかるが当時の俺はただただ怖くて震えていた。
どれくらい時間が経ったのか、周りは真っ暗になった。
雨は相変わらず強く降り続いていた。
俺達はずっと無言で、精神状態も普通ではなかった。
不安が募りすぎて頭が働かない。
Bは泣いていたが、俺もAもBに声をかけようとはしなかった。
木々を叩き続ける雨の音に混じって、ふいに「おーい」という声が聞こえた。
俺達は顔を見合わせた。
聞き間違いではない。
全員に確かに聞こえたのだ。
じっと耳を凝らす。
「おーい……おーい……」
大人だ。
「探しにきたんや!」
そう言ってAが飛び出した。
キョロキョロと周りを見回す。
「おーーーい!誰かー!」
口に両手を添えてAが大声で呼びかける。
俺もBも同じように大声で居場所を伝える。
「……おーい……」
声は遠くから聞こえる。
どの方角から聞こえるのかわからない。
真っ暗な山の中で雨の音が周囲を覆っている。
「……おーい……」
呼びかける声は遠く、俺達の声が届いているかもわからない。
ふいに俺は想像してしまった。
真っ暗な山の中、呼びかける声は、果たして人間のものだろうか。
「……おーい……」
声は付かず離れず、一定の間隔で聞こえている。
「見て!」
Bが叫んで遠くを指差した。
その方向に目を凝らすと遠くで小さな光が揺れている。
懐中電灯の光だ。
「行こう!おーい!おーい!」
そう叫びながらAが駆け出した。
俺とBも後に続く。
助かったという思いと、もしあの光が懐中電灯ではなかったら、という想像が頭の中でグルグルと渦巻いていた。
俺達は光の元へと走った。
光はふいに揺らめいて見えなくなり、またすぐに現れた。
「……おーい……」
声も変わらずに聞こえてくる。
俺は恐怖を感じながらひたすら走った。
おかしい。
走っても走っても光の元にたどり着かない。
もうかなりの距離を走ったはずなのに一向に光の揺らめきが近づいてこない。
呼びかける声も相変わらず遠い。
俺達が走る速度と同じ速度で、光と声が遠ざかっているのでなければ、もうとっくに光の元へ辿り着いている筈だった。
「ねえ…何かおかしない?」
俺は2人に声をかけた。
立ち止まって3人で向き合う。
雨は少し弱まってきていたが、まだ周囲のあらゆる空間を雨音が満たしていた。
「……おーい……」
声は続いている。
チラチラと揺れる光も見えている。
「こっちです!ここにいます!」
Aがまた大声で呼びかける。
「……おーい……」
声に変化はない。
「さっきからさ、おーいしか言わへんよ」
俺はおかしいと思っていることを続けた。
「こんだけ走って近づかんなんて絶対に変や。狐か何かに化かされてるんちゃう……」
そう口にした時、ふいにモノノケという単語を思い出して鳥肌が立った。
山に入るとモノノケに食われる。
大人が言っていた言葉が耳によみがえった。
俺達は立ち尽くしていた。
動くことも喋ることも出来ず互いの顔を見合わせて黙っていた。
「おい」
ふいに近くから呼びかけられ俺達は飛び上がった。
声は俺達のすぐ後ろから聞こえた。
太くて低い男の声だった。
慌てて振り向くと誰もいない。
雨に濡れる真っ黒な木々が見えるだけだ。
雨音に混じってパキパキと枝を踏む音が聞こえる。
姿は見えない。
「あの……誰か…いますか…」
ようやくそう言った。
我ながら驚くほど細く弱々しい声だった。
女の子みたいな声で恥ずかしくなったが、AもBもなんの反応もせず目の前の闇を見つめていた。
「誰か……誰かいますか!」
勇気を振り絞ってそう呼びかけた。
静寂の中で雨音がやけにうるさい。
真っ黒な木々、その向こうに広がる闇。
どこまでも真っ暗な闇の中に、ふと何かが動いた気がした。
どこで何が動いたのかわからない。
じっと目を凝らしていると視界の端でまた何かが動いた。
今度こそ居場所がわかった。
それは20メートルほど離れた場所に立っていた。
真っ黒な視界の中でうっすらと赤いそれはゆっくりと近づいてきていた。
ひっと声を上げてBが逃げ出した。
Bもアレに気づいたのだ。
俺もAもBを追いかけて駆けだす。
だが大人かもしれなかった。
真っ暗な山の中で明かりも持たずに近づいてきた。
どう考えてもおかしかったが万が一俺達を探しにきた大人だったとしたら逃げてしまえば俺達は再び遭難だ。
だからAとBを呼び止めて俺達は木の陰に隠れた。
真っ暗な視界の中で再びそれを探す。
赤い何かだ。
赤い何か。
そう考えて目を凝らす。
いた。
さっきまで俺達がいた辺りを歩いている。
明かりのない中でうっすらと赤い何かが動いている。
木の陰に潜んでその姿を目で追う。
寒さと恐怖でガチガチと歯が鳴った。
その音で気づかれてしまうんじゃないかと思うほどだった。
それは俺達がいる方に近づくわけでもなく見当違いの方向へ歩いて行った。
人だったと思う。
少なくとも見た目は化け物ではない。
俺達はゆっくりと近付いていった。
赤い人だと思ったがどんな人なのかまでは分からなかった。
大人なのか、俺達を探しにきたのか、それとも頭のおかしい人なのか。
助けを求めなければ助からない。
だがあの人に声をかけていいのだろうか。
もう少し近寄ってよく見てみないと分からなかった。
赤い人が歩いていった方へ足音を立てないように注意しながら近付いていく。
10メートルくらいまで近付いてようやくそれが赤い着物の女の人であることがわかった。
「おい」
まったく突然、すぐ真後ろから声がして俺達は固まった。
野太い男の声。
声の感じからしてすぐ背後、数歩も離れていないだろう。
赤い人が立ち止まった。
ゆっくりとこちらを振り向く。
一瞬だけ後ろを振り返ると案の定誰もいなかった。
すぐ顔を前に戻すと赤い女の人がこちらを見ていた。
着物姿で長い黒髪を垂らしている。
顔は白い。
こちらを向いているが遠いのと暗いのでどんな表情なのかわからない。
雨に濡れているはずなのに髪も着物も形を保っているのが奇妙だった。
人間じゃない。
そう思った瞬間、俺の耳元で「おい」と大きな声がした。
俺は頭が真っ白になって逃げ出した。
AのこともBのことも顧みず真っ先に走り出した。
待ってよ!というAの声がしたが俺は無我夢中て走った。
走り続けて気がつくと1人になっていた。
雨はまた強くなり豪雨となっていた。
走り疲れて俺は座り込んだ。
雨が体に打ち付けて痛いほどだ。
呼吸が辛く頭が回らない。
ここがどこでAとBがどうなったのかもわからない。
これはきっと悪い夢だ。
目を覚ませばお母さんが……きっと台所に……目を……覚ませば………………。
頭がガンガンと痛み涙が止まらない。
轟々と耳鳴りがして雨音なのか耳鳴りなのかもわからなかった。
パキッと枝を踏む音がして顔を上げると、目の前に赤い着物を着た女の人が立っていた。
あ…う…と口から息が漏れる。
寒さに凍える中で股間が温かくなるのを感じた。
真っ赤な着物に長い黒髪。
真っ白な顔に見開かれた狐目。
尋常じゃない様子で笑っている。
目を見開き口を二ィッと開いて白い歯をむき出していた。
そして口を開いて「おい」と男の声を出した。
俺は頭がおかしくなりそうだった。
女の人はまた「おい」と声を出すと口元に手をやりクスクスと笑った。
女の声で笑った。
座り込んで見上げる俺の顔を覗き込んでまた男の声で「おい」と言って、またクスクスと女の声で笑った。
俺は回らない頭で理解した。
さっきまで呼びかけていたのもこの女の人だったのだ。
俺達を呼び寄せ、走り回らせ、バラバラにさせたのもこいつだ。
俺は逃げ出そうとしたが体が動かなかった。
疲労のためか、腰が抜けたのか、恐ろしいのに俺は女の人から目を離せず動けずにいた。
女の人はクスクスと笑いながら俺を見ている。
狐目を見開き俺を見据えている。
キ◯ガイだ、と思った。
まともな理性が感じられない異常な目だった。
ほんの数秒経っただろうか、女の人は口元を手で隠したまま「取って食べよか」と言った。
俺は何を言われたのかわからなかった。
女の人はまた「取って食べよか。親御の元に戻そうか」と歌うように繰り返した。
女の人はクスクス笑いながらその言葉を繰り返している。
俺は言葉の意味を理解して震えていた。
「取って食べよか」
女の人は笑い続けている。
「親御の元に戻そうか」
雨と涙で視界が霞む。
「お願いします……」
俺は跪いて女の人を見上げた。
「帰してください……」
涙が溢れしゃくりあげながら何度も懇願した。
「お願いします…お願いします!」
女の人はクスクス笑いながら「取って食べよか」と繰り返している。
涙や鼻水でグシャグシャになりながら女の人を見上げると、その顔がゆっくりと近付いてきた。
ニィッと笑う口が大きく開かれる。
食われる、そう思った。
顔がゆっくりと近づいてきて、俺の意識は闇に沈み、ふいに光の中で目を覚ました。
気がつくと俺は自宅の居間に敷かれた布団に寝かされていた。
周りには両親や町の大人達が集まっていた。
「目ぇ覚ましよった!」とか「このボケガキがぁ!」とか「ほんまに良かったなあ」とか色々言われて頭をなでられたり叩かれたりした。
山で何があったのかを問いただされ、俺は痛む頭を堪えながら全てありのままに説明した。
しばらく風邪でうなされ、ようやく回復した俺はあの日のことを母親から聞かされた。
あの日俺は山の入り口に倒れていたらしい。
夜になっても戻らない俺達を探して山に来た大人達が俺を見つけてくれたようだ。
他の大人達が山に入ったがAとBは見つからなかった。
その後も毎日捜索は続いているが未だに見つかっていないらしいと。
翌日俺は母親に連れられて町のお寺へ向かった。
住職さんに挨拶して簡単なお説教を受けた後、山の中にいるモノノケについて教えてもらった。
山に入るとモノノケに食われる、という言い伝えは方便というものらしく、実際に山にいるのは昔々から山に祀られている神様、のようなモノでモノノケとは違うという。
昔から五穀豊穣をもたらすありがたい神様であると同時に人を取って食う恐ろしい神様でもあり、みだりに山に入った者が神隠しに遭うということがよくあったと。
さらにその神様を祀っていた御社が山崩れによって消失した。
再び御社を建立したもののどうにも神様の気配が宿らなかったという。
何度も儀式が行われるも一向に神様は宿らない。
そうこうしているうちに儀式の関係者が何人か神隠しに遭い、危険だと判断された山は荒ぶる神さまがおられる神域として封鎖された。
そこで大人達はちゃんと理解して山に入るのを禁じ、子供達には恐ろしいモノノケが山におるよと言い聞かせてきたのだと。
AとBはおそらく神様に食われたんやろう、大人達も危険だからもう捜索も打ち切りになるやろと住職さんは言った。
俺は2人を見捨てて逃げ出したことを住職さんに話した。
しかしその後俺は当の神様に出くわしてなぜか山から降ろされた。
何人か取って1人戻すということは過去にもあったらしく、俺はたまたま運が良かっただけのことで、今後二度と山に入ってはいけないと言われた。
町を出た方が良いとも言われた。
そして他所の土地へ行っても出来る限り山には入らないようにしなさい、どこであっても山とは神様のおられる異界でありこの辺りの山とも繋がっているから、神隠しに遭った俺はどの山に入っても、あの山の神様の手が届いてしまうと。
それらのことを聞かされて俺は母親と自宅へ戻った。
その日の夜に母親と父親が話し合い、俺の一家は東京へ出て行くことになった。
住職さんに言われたこともあったが、AとBの両親は俺を恨んでいるようだったし、このまま町にいても住み辛いだろうということで、両親はあっさりと東京行きを決めた。
もしかしたら過疎の町から逃げ出せることを喜んでいたのかもしれない。
小学六年生の夏、卒業を待たずに地方からやってきた俺は、新しい学校の生徒達から奇異の目で見られた。
訛りがあったのも馬鹿にされ、俺は居場所のない小学校生活を卒業まで耐えることとなった。
多少イジメらしきものは受けつつもそれ以外に怖い思いをすることはなく、それ以降も俺に神様の手が届くことはなかった。
ここまでが子供時代の話。
続きます。